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2007年 10月 23日
There is a pleasure in the pathless woods,
There is a rapture on the lonely shore, There is society where none intrudes, By the deep sea and music in its roar: I love not man the less, but Nature more, 映画の始まりに、このLord Byronという人の書いた上記の詩が画面いっぱいに書き出された時、心臓がどきどきした。 ストーリーは実際に起きた出来事が元になっている。 大学卒業とともにアラスカを目指した青年が、その地で餓死(*1)するまでの約2年間の旅を追ったものだ。 お金とか、物とか、そういうものを一切捨てて、野性の中で生きてみるためにアラスカに向かう。 両親のこと、妹のこと、旅の間に見たこと、出会った人々とのこととかが、さまざまな詩や哲学の引用によって表現されるのを聞いていると、青年がやろうとしていること、知ろうとしていること、感じようとしていること、今感じていることが、どんどん胸に迫ってきて、かなりの圧迫感のある映画だった。 青年が大学を卒業したのが1990年、22歳の時で、それから2年にわたってアメリカの西側を旅して歩き、24歳の春にアラスカに到着する。 国立公園のトレイルを辿って山の奥深くまで進み、川沿いに放置されていたバスを見つけて住み着く。 持ち込んだ食料は4キロ弱の米だけで、それ以外には旅の途中で譲り受けたライフルと、少しのキャンプ用品、カメラ、そして何冊かの本だけだった。 狩りをしたり、その辺の植物を採集したりしながら、数ヶ月間一人で生活した後、前述の通りに、死んでしまうことになる。 青年が言うことは、理想論に聞こえたり、ナイーブ過ぎるように思えるかもしれないし、 青年がやったことは、浅はかな若者に起こりがちな一過性のものだと片付けることも出来るかもしれない。 実際に、死体が発見された当初は、充分な準備もなくアラスカの自然の中に入っていった青年をとがめる声もあったようだ。 それは私にも理解できるし、青年は決して死ぬまでやろうと思っていたわけではないと思うので、 彼の死は、その準備及び知識不足からきたものだということは分かる。 決して、彼の行動を美化するつもりはないのだけれど、 ないのだけれど、でも、きっと、アラスカに行くよりしょうがなかったんだろうなあと思う。 無責任に聞こえるかもしれないけれど、そういうことはあるような気がする。 彼が口にしたひとことひとことを聞いていて、そうなのだろうと思った。 映画の中でも、つまり実際の場面でも、多くの人が青年を何がしかの形で受け止めたし、中には何がしかの心の交流が出来た人もあったし、 物質的な手助けをすることで彼らなりの何がしかを伝えようとした人もあった。 それは、正しいとか間違っているとか、成熟しているとか子供っぽいとかいう以前に、 全てが青年の心の奥深くから搾り出すようにして出てきたものであるからなのだろうと思う。 人というのは、心の奥深くから出てきたものについては、それがそうだということがちゃんと分かるのだろう。 なぜなら、それはたぶん、誰の心の奥にも同じものが潜んでいるからで、 青年が言わんとすることを理解できなくても、或いは賛成できなくても、身体の中のどこかで何かが揺れて音を出しているのを感じることが出来るからだろう。 青年は、もうすぐ死んでしまうという頃、持ってきた米も底をつき、痩せて、食べた植物の種か何かで身体が急激に弱ってきた頃、 ずっと持ち歩いていた本の上にメモ書きをする。 Happiness is real when shared. (幸せは誰かとシェアした時に本当のものになる。) それとほぼ同時に書かれたと思われるメモにはこんなことが書かれている。 What if I were smiling and running into your arms? Would you see then what I see now? (もし僕が笑顔で腕に飛び込んでいったらどうなるのだろう?僕が今見ているものと同じものがあの人達にも見えるのだろうか?) ここで言うyouとは、映画の中では、折り合いが悪かった、というより、青年がアラスカに行くことになった原因と言っても良いだろう両親のことになっているのだけれど、 youとなりえるモノは、何も両親だけではないように思う。 映画の描き方だと、気弱になってきた青年が半ば反省するというか、本当の愛はなにかと気づくというような感じ、 或いは本当は両親に分かってほしかったというような感じに受け取られかねないようにも思うのだけれど、 Happiness is real when shared. Would you see then what I see now? というのは、それとは少し違う意味のように私には思える。 もっと、根本的なことを言っているように私には感じられた。 もっと人類全体に向けられたもののように思えた。 本も出版されたし(Jon Krakauer著)、映画も大々的に上映されて、結果として、青年は多くの人といろいろなものをシェアすることになったと思う。 本を読んだり、映画を観たりした人の中には、彼が見ているものと同じものが見える人がきっとたくさんいるだろう。 でも、本や映画がなくても、アラスカへ行かなくても、それぞれのやり方で心を揺らそうとしている人は、 きっとどこかで、青年とつながるのだろう。 彼がメモに残した言葉は、そういう意味のような気がする。 (*1)青年は日記の中で、ワイルド・ポテトの種を食べたことにより、それに含まれる毒性のものによって身体が弱っていったと書き残しているが、 正常な健康状態の人間が食べた場合には、体内のブドウ糖およびアミノ酸により充分に対応でき、致命的なことにはならない。 死体で発見された当時、青年の体脂肪分は10%にも達していなかったことから(男性の正常値は15~20%)、毒性に抵抗できなかったのだろうと考えられている。 しかしながら、青年が住んでいたバスの付近のワイルド・ポテト(エスキモー・ポテト)を調査した結果、毒性が認められなかったこともあり、青年の死は、単に餓死によるものだという見方もある。その原因については解決されていないままである。↑ Into the wild オフィシャルサイト #
by bp1219
| 2007-10-23 07:45
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