|
2008年 10月 18日
著者は理数系文学者として有名で、彼の書く文章には理論的或いは科学的な説明が入ることが多い。
少し理屈っぽいようなところもあるから、一般的には読みにくいのではないかと思う。 天気のこととか、船のこととか、星のこととかが好きなようで、ともすると、話がそういう方向に向かっていくのだが、どこか中途半端に玄人であり素人であったりする。 つまり、その道の専門家からすれば物足りなく、普通の人からすれば専門的過ぎるのだ。 しかし、その中途半端さの中に含まれているものが著者であり、誰のものでもない彼自身による視点と思いなのだと思う。 だから、そのリズムに合ってくると、そこにある物語が見えてくるようになり、遠い星空の話というよりは、著者そのものについてを聞いているような気分になってくる。 本書はその典型、というよりは代表格、原点だった。 著者が沖縄の田舎に住んでいた頃に、付近の自然についての話を書き、月一回の割合で雑誌に載せていたのをまとめたものだ。 最初の章で著者本人が危惧していた。 田舎の話を、鳥だの虫だの魚だのの話を、どれだけの人が面白がって聞いてくれるのだろうかと。 私もその時は訝しく思った。 パラパラっとページをめくっても、折角の沖縄色もあまり感じられないし、著者が撮ったと思われるヘタクソな写真が載っていて、その写真の下には、そこに写っている鳥だの植物だのの長い学術名が記されている。 味わいが出てくるまでには、いつもにも増して時間がかかりそうだと思った。 しかし、ほんの数ページを読んだ段階で、著者の沖縄の家にいるような気分になった。 それは、あっという間だった。 彼が裸足の足でミシミシと音をたてながら家の中を歩き回る様子や、網戸を開け閉めする際のガタガタとした音や、軒下に作られた鳥の巣の中でピーチク鳴く雛の声などが感じられた。 潮や緑の匂いも風に乗って流れてきた。 そして、著者の後ろについて、昆虫の体長を測ったりとか、近所の草刈りに参加したりとか、早起きして朝日を見たりしているような、とてもゆったりとした気持ちになった。(*1) こういう言い方はもしかすると失礼なのかもしれないが、それは、著者の文章力というよりは、私がたぶん、この著者のことをとても好きだからだと思う。 彼の考え方とか視点とか、興味の持ち方とか、そういうものがとても好きだからだと思う。 これまでに読んだ著作から、著者に対する信頼とか好感とか安心感が充分に育っていたのだろう。 今回は、エッセーの中でも少し風変わりで、土台となったのが「自宅から見えるもの」についてだった。 それはつまり、彼の今現在の毎日の生活の中にあるものについて、ということだ。 そこがポイントだったのだと思う。 それはいわば、私が信頼している著者の考え方といったものが出てくる場所である。 そこに触れたことで、すーっと本の中に入っていかれたのだろうと思う。 そういう意味では、この本は、誰にもかれにもお薦めできるとは言えないかもしれない。 よく、「この著者を初めて読むのだったら、この本から」などという薦めかたをする人があるが、その意味が分かったように思った。 もちろん、本を読んだ印象などというものは人それぞれであるわけだけれど、それでも、そういうことはあるように感じた。 と言いつつも、「初めての池澤夏樹」というような紹介の仕方は私にはやはり出来ないが、少なくとも、それが「アマバルの自然誌」でないことは確かである。 もし、本書を読むのであれば、どれでもいいから著者の他の本数冊をじっくり読んでみて、それらの本が気に入ってからのほうが良いように思う。 ある程度の読む順番が気になるというのは、著者が癖のある作家だということなのだろう。 スッとは入れないから、ちょっと読んではやめ、時間をあけてまた読んで、というのを繰り返すうちに、徐々に信頼が膨らんでいくタイプということなのだろう。 そのように言われることを、作家はどのように受け止めるのだろう? いずれにせよ、私にとっては、池澤夏樹はそういう作家であるし、「アマバルの自然誌」を読んでみて、それがとてもよく分かった。 (*1)特に気に入ったのは、著者がソーラーパネルで電気をまかなっているという件り。 自宅で使い切らなかった電力を電気会社に売ることが出来るそうで、(ソーラーパネルの効力はそれほど大きくなく、そうなることは稀であるようだが)ついつい、マメに電灯を消して節電しているうちに、電灯そのものをつけずに家の中を歩き回るようになったと書いている。 家の構造や家具の位置関係などといったものは体が覚えているから、夜の月明かりを頼りに、家の中くらい楽に歩けるものだと言う。 その物言いからは、節電云々のことを超えて、そのようにして暮らすこと、そのように夜を過ごすことを心地よく感じている様子が伺えた。 私自身は、用事が済めばマメに電灯を消すほうだと思うが、逆に考えると、マメに電灯を付けるとも言える。 台所へ行って湯のみを取ってくるだとか、寝室の枕元に置いてある本を取ってくるとか、その程度のことで各所の電灯を付ける。 著者がとても気持ち良さそうに暗闇の家の中を歩く様子に心惹かれたので、私もそうしてみてみると、実際に、月明かり(や隣家や街灯から届く明かり)があれば、湯のみや本を探すのに、電灯をいちいち付ける必要はないと思うのと同時に、何よりも、暗闇を壊さないのが心地良いと感じるようになった。 一瞬にしてそれを壊し、こうこうとした人工の光を差し入れることは、鋭利な感じを伴うと思う。 大袈裟かもしれないが、一つの大きな暗闇の世界をゆっくり歩くことは、海底を歩くのにも似て、とてもやわらかく、心地良いものであると思う。↑
by bp1219
| 2008-10-18 00:10
| Books
|
ファン申請 |
||