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2008年 05月 31日
Six Feet Underというと、北米などでは棺おけを埋めること意味する。
6フィートはだいたい180センチくらい。 右の2番目の写真のようなイメージで、人間一人が立てるくらいに深く木の根元(であることはあまりないと思うけれど)の土を掘り起こし、そこに死体の入った棺おけを横たえるわけである。 だから、six feet とか、six feet under とか、six feet underground などと言った場合、大抵は、死やそれにつながることを意味することになる。 というような題名が付けられたテレビドラマで、2001年から2005年にかけてアメリカのHBOで放映された。 葬儀屋一家が主人公となっている。 毎回、エピソードの冒頭では必ず誰かが死ぬことになり、その家族なり友人なりが葬儀屋一家を訪れ、然るべき葬式の準備が執り行われる。 HBOは数々のヒットドラマを生み出しているチャンネルだ。 その中にあって、「Six Feet Under」は異色の存在であり、製作側としても、これまでのヒットドラマの視聴者が流れてくるとは期待していなかったようだ。 新たな視聴者を獲得できるか、もしくは誰も獲得できないか、という大きな賭けではあったものの、「葬儀屋一家の物語」というアイデアを捨て去ることは到底できない相談だったと強く主張する。 かくして、ドラマが製作されることになった。 言うまでもなく、私は「新たな視聴者」の一人である。 「葬儀屋一家の物語」と聞いて、吸い寄せられるようにドラマを見始めた。 ある種の人々は死を毛嫌いし、自分とは関係のないものと位置づけ、或いは見ないふりをする。 ある種の人々は興味を持ち、或いはそこにあるものとして受け入れる。 新たな視聴者というのは、私も含め、完全に後者の集まりだろう。 彼らは(私は)、死と日常的に付き合っている人々の世界観を見てみたいと思い、また、死がもたらすものを見てみたいと思うのだろう。 「Six Feet Under」は、あくまで葬儀屋一家の物語である。 前述した通りに、エピソードの冒頭では必ず誰かが、葬儀屋一家とはほとんど何ら関係のない人々が死ぬことになっているが、話の中心になるものはそこにはなく、あくまでも物語は一家と彼らを取り巻く人々のものだ。 そのことを知ったとき、そして、回を重ねるに従い、その比重が次第に濃く重くなっているのを感じたとき、製作者の意思のようなものを感じ、どんどんとのめり込んでいった。 このドラマが、流行を生み出すとか、視聴率を狙うためだけの代物になるはずがないことは明らかだった。 そこには、切実な思いのようなものがあったと思う。 製作者達もまた後者の集まりなのだろうと思った。 誰かがどこかで、「登場人物たちを少しずつ好きになる(They grow on me)」というようなことを言っていたが、その英語の表現からイメージできるように、確かに、彼らとの関係性が生じてくれるようなところがあった。 うち一人に(或いは複数に)自分を投影するとか、同時性を持たせるとかいうよりも、登場人物達を複雑な心理を持った一人の親しい人間として、横から眺める感じに近かった。 最初のうちは、気に入りの人物がいたりもするのだが、その内に誰に対してもほぼ同じだけの愛情を持つようになる。 もちろん、性格が似ている人物には労わりや悲しみの気持ち(或いは逆の気持ち)をより強く持ったり、性格の合わなさそうな人物には怒りや失望の気持ち(或いは逆の気持ち)をより強く持ったりもする。 しかし、そのうちに、労わりきれなくなったり、悲しみきれなくなったり、怒りきれなくなったり、失望しきれなくなったりしていることに気が付くのだ。 それはつまり、丸ごと受け入れるようになる、ということなのだろうと思うが、受け入れるというのは、非常な苦しみを伴うものなのだと思った。 自分の意思とは関係なく、どんどんと愛情が育ち、受け入れていってしまうのだが、同時にものすごく辛いのだ。 なぜなのだろう? 最も感情をゆすぶられた人物が2人いた。 葬儀屋一家の長男ネイトとそのガールフレンドであり、後に結婚することになったブレンダである。 ネイトは、他人を傷つけることにより自分を救うようなところがあった。 彼の放つ言葉はいつでも辛辣で、自分への言い訳を含んでいた。 さまざまなものへの、或いは自分への怒りを、自分へぶつけるとともに、それ以上の大きさで他人にぶつけていた。 なのに、いつでも、傷つけられ、怒りをぶつけられた他人は、ネイトの言葉があまりに正当であるが故に何も言えない状態にさせられた。 無意識にとても巧みに自分を守っていたように思う。 その一方で、或いはだからこそ、ふとした時に、悲しんでいる人や苦しんでいる人にやさしく接することも出来ていた。 私は、彼を見るたびに、彼の口から出る辛辣な言い訳がましい言葉を聞くたびに、水々しいピンク色をした内臓が鋭利なナイフですっと切られ、傷口がゆっくりと反り返り、そのうちにパックリと口をあけていくような気持ちになった。 何度も何度も切られたので、内臓のもうどこにもナイフをあてる場所がないくらいだったが、それでも、繰り返し繰り返し彼はナイフをあててきた。 ブレンダの生い立ちは滅茶苦茶で、そのトラウマから抜け出そうともがき、ほとんど狂気に近いような行動を取るようになっていった。 しかし、それは狂気なのではなく、はっきりと自覚してやっていたことのような気がした。 彼女は、自分を傷つけることにより自分を救おうとしていたように思う。 その際には、もちろん、何人もの他人を傷つけたが、他人の怒りを自分に向けさせることだけはしていたように思う。 だから、時には彼らを失ったりもした。 自分の異常さや愚かさや冷たさをきちんと理解していたように思う。 しかし、その分、立場を脅かす特定の人に向ける態度にはやさしさが含まれていないことが多い。 ドラマの中では、折に触れて死んだ人々が現れ、登場人物たちに話しかけてくるのだけれど、ブレンダと彼らの会話はいつも辛辣の極みだった。 死者達の言葉は、それは、もちろん、登場人物達が死者に言わせている(死者を通して自分に言っている)言葉なわけだが、ブレンダのそれは、体の表裏がひっくりかえるくらいに聞くに耐えない言葉ばかりだった。 結果として、多くの人に愛され、必要とされ、繋がっていたのはネイトのほうである。 いや、繋がってはいなかったのだろう。 だから、ずっと苦しんでいたのだろう。 けれど、少なくとも人々は彼と繋がろうとしていたと思う。 逆に、ブレンダは、紆余曲折を繰り返したものの、結局のところ元にいた場所に戻って行ったと思う。 たぶん、そこはある意味、最も居心地の良い場所であり、そこしかいる場所はないのだということを理解(観念)した上での結果だから、それなりに幸せだったのだと思うが(望むが)、苦しくもあったと思う。 こうしてみると、ネイトは周りから手が差し伸べられていたのに、それを掴めなかったのに対し、ブレンダは差し出した手を掴んでもらえなかった、という違いがあっただけのことなのかもしれない。 そして、結局のところ、私はどちらをも、ほぼ同じように受け入れていたように思う。 自分の意思とは関係なく、どんどんと愛情が育ち、受け入れざるを得なかった。 勝手に彼らが心の中に居座っていた、というような気持ちだった。 なぜなのだろう? 冒頭の死や葬儀屋ということと、ネイトやブレンダの問題、一家一人一人の問題には、実のところ関係性は全くない。 彼らの問題は、彼らが葬儀屋だから存在することではもちろんないわけだからだ。 しかし、彼らを受け入れた、受け入れざるを得なかったのは、そこに死があったからではないかと思う。 そこに死の匂いや物理的な死自体があることにより、そういう風になったのではないかと思う。 安定感というのは「死のにおい」だと言っている人がいた。 安定していて、ざわざわしていないから、逆に怖くて寂しいものだと。 そういったものを目の前にしていると、どこか全てに観念し、受け入れてしまうということなのだろうか? 死がもたらすものとは、そういうもののことなのだろうか? たとえ視聴率がガタガタになろうと、「葬儀屋一家の物語」を見てみたいと思った製作者達にも、物語がどんなものになっていくのかは分からなかったのではないかと思う。 製作しているうちに、どんどんと何かに引っ張られるようにして物語が出来上がっていったのではないかと思う。 そして、ネイトやブレンダや他のそれぞれにユニークな愛すべき登場人物達に居座られたのではないか。 だからこそ、見ている側にこれほどの動揺が伝わってきたのだろう。 死が製作者達の思いを通して視聴者にも伝わってきたということなのだろう。
by bp1219
| 2008-05-31 00:10
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