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2009年 05月 23日
梨木香歩というのは、もともと童話を書いている作家であり、一般の小説として出版されているものでもファンタジーの要素の入ったものが多い。いや、これまでに読んだ本全てに、多かれ少なかれ、その要素があったと思う。 しかしながら、「裏庭」に関して言えば、その地味なタイトルとは裏腹に、多かれ少なかれという程度を超え、かなり根性の入ったカラフルなファンタジーに仕上がっていた。 ここまでのものとは全く予想せずに読み始めたものの、その完成度の高さに、無防備のまましっかりと引き込まれた。 どこかで誰かが、ジブリが喜んで映画化するのではないか?と評していたが、言われてみると、なるほど、その通りだと思う。 目に浮かぶ背景の奇妙な美しさ、繊細な色と空気、展開の速さなど、どれを取っても、申し分なく映像化できると思う。 しかし、矛盾したことを言うようだが、「裏庭」に含まれたファンタジーの真髄は、映像化によって、もしかすると消えて(或いは歪んで)しまうかもしれないとも思う。 私がファンタジーなり童話なりという、所謂、子供向けに書かれた本を読むようになったのは、臨床心理学者の河合隼雄氏の影響である。 同氏は、幾つかの童話を取り上げ、そこに描かれているものをこと細かく読み解いた著作を何冊か出版している。 童話に興味はあるが、どうしても入りこめないと感じてしまう人は、一度、河合氏の本を読んでみてみると良いと思う。 (*1) 時には、人の力を借りてはじめて、その良さを実感できたりするものだ。 私自身がその一人で、ファンタジーの中には、子供でなければ分からないもの、つまり、自分が見失っている世界が詰まっていることは分かるものの、それを見、感じることが出来ずにいた。 そこを、河合氏の本を読むことで、少しずつ、その世界へ近づけているように思う。 そのような分際の私が、ファンタジーの真髄などと言うのもおこがましいことではあるが、どの童話にも、無意識にたどり着いてしまうような死に近い世界があるように思う。 とても危険で、かなりの苦しみや勇気を持たなければ乗り越えられないような世界が広がっている。 逆に言えば、死の近くまで行くことで、乗り越えられる世界と言い換えてもいいかもしれない。 子供は、いつでも、死の近くに住んでいるから、童話の中にすっと入り込み、その危険な冒険を遣り抜くことが出来るのかもしれない。 そして、ファンタジーや童話を通して、経験を数多く積んだ子供は、やがて大人になり、乗り越えるべき冒険が実際に目の前に立ちはだかった時、上手く遣り果せることが出来るのかもしれない。 ファンタジーの真髄とは、そのようなところにあるように思う。 そして、「裏庭」には、その真髄が、個人的でありながら、どこか(河合氏の言葉を借りれば)普遍的な無意識のようなそれが、しっかりと盛り込まれていたと感じた。 梨木香歩は、確か、英国の童話作家のところへ弟子入りのようなことをしていたと思う。 そのためなのか、どの小説にも異国の雰囲気のあふれていることが多いが、それと裏腹に、古風な日本の様子が重ねて描かれていたりもする。 今回の「裏庭」においても、戦前に英国人が住んでいた邸宅がファンタジーの入口であり、重要な登場人物の何人かはイギリス人である反面、戦中の日本のおかっぱ頭の女の子や坊主頭の男の子が裏庭を行き来する姿が描かれている。 それらの一見交じり合わないような雰囲気のものが、違和感なく溶け合う感じは見事だと思う。 異国情緒というようなものではなく、ただただ溶け合っていくのである。 それは、もしかすると、作者の書くものがファンタジーの真髄を極めている証拠なのかもしれない。 「裏庭」を通して、死に近い世界、普遍的無意識の世界を、意識的にしろ無意識にしろ感じた読者は、ただただ溶け合っていくように感じてしまう、ということなのかもしれない。 童話を書いているのは、だいたい大人である。 たぶん、子供は書けないだろうなと思う。 なぜなら、前述した通りに、その世界に近いところに住んでいるからである。 稀な例があるかもしれないが、その世界に住みつつ、それを意識的に言語化、物語化するのは難しいのではないかと思う。 逆に言えば、童話を書ける大人というのは、その世界を体験しつつ、別の世界(私のような者が住んでいる世界)に戻って来られる人なのだと思う。 そのようなパイプを持っている人なのだと思う。 例えば、「パンズ・ラビリンス」の脚本を書き、監督も自ら行ったギレルモ・デル・トロなどという人は、通常はあっちの世界にいて、必要に応じてこちらの世界へ戻ってくるような感じがあるし、村上春樹などは(本人も言っていることだが)、どこか深いところへもぐっていき、そこにあった物語を拾って、こちらの世界の言葉に翻訳しているようだ。 それに比べ、梨木香歩という作家は、もう少し意識的に暮らしているような印象がある。 あちらの世界に住んでいる感じがしない。 だから、彼女の書くものは、デル・トロや村上春樹のように、どこかの世界から持ってきたものではなく、多くの作家のように、こちらの世界に暮らしながら、予め構成した上で緻密に書いたものなのだろうと思う。 しかし、「裏庭」にあるファンタジーは完璧であり、どこにも意識して書いた跡がない。 どこかで読んだ童話からヒントを得て書いたとか、教訓じみたものが滲み出た跡とか、そういうものが全く見当たらないのだ。 デル・トロや村上春樹のように、あちらの世界に行って見てきたことを書いているように思えるのだ。 あのような意識的な人が、どうやってあちらの世界へ行くのだろうか。 推測するに、超えるべき冒険が目の前に立ちはだかった時に、とことん思い悩むのだろうと思う。 考えて考えて考えて、それを何とか言語化しようと試み、それを形にして人に伝えようと試み、そうしたことを何年もかけて、ボロボロになるまで繰り返すのではなかろうか。 その結果、その思いのようなものが、勝手にどこかへ行って、物語の登場人物を探して来るのではないだろうか? それはきっと、「どうやって」ということではなく、追い詰められて必死になって書くことでそういったものになるのだろうと思う。 そういう意味では、非常に不器用な作家のように感じられる。 もしかすると、彼女は、ファンタジーや童話の中での冒険をやってこなかったのかもしれない。 だから、今、自分のために、それを書いているのかもしれない。 だから、あれほど、心に響くのかもしれない。 だから、あれほど、完璧なファンタジーになったのかもしれない。 (*1)講談社α文庫から出ている「子供の本を読む」「ファンタジーを読む」など。詩人の長田弘氏との対談集「子どもの本の森へ」(岩波書店)もとても良い。他にもたくさん出ている。 ところで、「裏庭」を読みながら、やはり、河合隼雄氏のことを否応なく思い浮かべた。河合氏なら感動した!と言って絶賛してくれるのではないかと思う部分がたくさんあったからだ。そう思いながら読み終わり、ふと最後のページをめくると、その河合氏が解説を書いておられた。これには、本当にびっくりしたし、とてもうれしかった。(解説が付いているのは文庫版のほうだけである)↑
by bp1219
| 2009-05-23 00:10
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