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2009年 03月 21日
あるサイトの記事を読んでいて、大事なことを書くのを忘れていたことに気が付いたので付け足し。
「絵を描くということは、科学的である」ということについて。 サイトとは、あの有名なほぼ日刊イトイ新聞である。 「あのひとの本棚」というコラムがあり、そこでは、ゲストが自分の気に入った本を5冊紹介することになっている。 イラストレイターの寄藤文平氏が「虚数の情緒」という本を紹介しているところで、こんなことが書いてあった。 「デザイナーの仕事に例えると、これからデザインするものをイメージすることとか、絵を描くときに想像を膨らませることとか、そのひとつの方法が「科学的」なんだそうです。 仮説を立てる、ということもそうですし、目の前にあるものをよく観察するということも。 よく観察した結果、これはこういうふうになってて、あれとよく似ているとか、そういうことを考えるのは科学的なアプローチであるっていうことを、この本を読んではじめて知ったんです。」 ほぼ日刊イトイ新聞 「あの人の本棚 寄藤文平」 デッサンに関するこれまでの文章の中で、「目の前にあるものをよく観察する」ということを、インストラクターの哲学として再三書いたが、彼もまた、そのことを「科学的である」と言っていた。 ほぼ日で紹介されていた本は数学を基本とした本のようだから、つまり、そちらの専門の人と、所謂、それとは対極線上にあるとされる絵描きの人とが、同様の見解を示しているというのは、その考え方の成熟性を証明することであると言えるのではあるまいか。 そしてまた、理数系と文科系が対極線上にあると思っているのは、実は、理数にも文科にも、それほどの関わりを持っていない人々の見解(或いはイメージ)であるだけで、そのどちらかにどっぷりとつかっている人には、そこにはつながりがあるということが分かっているのではないか、という風にも思う。 池澤夏樹は私の好きな作家であるが、彼は、そのことをかなり強い姿勢で(意識的に、或いは無意識に)表現している。(*1)理数系作家として有名で、彼の書く小説やエッセーの中には、星や海のことや、船舶のこと、生物界のことなどがよく出てくる。 それらは、詩的な感じで表現されているのではなく(彼は詩人でもあるが)、もっと、学問的、専門的、自然科学的な趣きによって書かれているのである。 ところが、それらのある意味読みにくい文章の中には、彼の人間性というか個性というか視点のようなものが入っていて、だんだんとそれを感じることが出来るようになってくる。 そのことは、池澤夏樹の本を読むことの最大の魅力ともなっている。 星(或いは海、船舶、生物全般)に興味がある人には、それはまた別の意味で魅力的であると思うが、そういう興味とは関係なく、少しずつ、作者である池澤夏樹を感じていくという魅力である。 池澤夏樹の文章から感じることと、デッサンのクラスの中でインストラクターに感じてきたことは、とても似ていた。 そして、その類似するところは、前出の「虚数の情緒」の作者の言うところの「科学的」なるものに関係するのではないだろうかと思った。 ここで自分のことを持ち出すと僭越な感じがするが、私は子供の頃、国語などよりは算数、数学、理科、化学、科学といった理数系の勉強のほうがはるかに好きだった。 それと平行して、本を読むことも好きで、明けてもくれても本を読んでいるような子供でもあったが、それなのに、国語の授業を面白いと思ったことはあまりなく、また、テストの点数もあからさまに悪かった。 それに比べ、理数系については、どの授業も面白いと思い、その世界の仕組みや考え方には何か自分の肌になじむものがあるように思った。 学校を卒業して、理数系の勉強をすることはなくなったし、世の中にある理数系のものというのは、私の理解をはるかに超えた難しい方式を使用していたりするが、その方式や原理自体を理解できなくとも、その奥にある何かを理解できるような気持ちになる。 このこと、つまり理数系的な考え方が好きなことと、自分が本好きであり、また、上手い下手は別にしても文章を書いていること、今回のように、デッサンなど習ってみようと思う気持ち、つまり文科系のことをやっていることに、どのようなつながりがあるのだろうかと思っていた。 或いは、全く関係のない、ただの偶然なのかと。 だから、デッサンのクラスで、インストラクターが「科学的である」という言葉を使ったとき、それが隠喩法か何かによる表現で、裏に隠された意味があるとかいうことではなく、「科学的である」という意味そのままなのだろうと思い、またそのことを意外だとも思わなかった。 そして、そこには、自分が感じていることにつながる何かがあると思い、今後も考えていったほうがいいなという風に思っていたのだった。 私はときどき、世の中の人々が言うことというのは、まるっきり違うことを言っているようで、実は同じことを言っているなと思うことがある。 異なる世界のモノゴトのことを言ってるような時や、表現が全く違うことや、一見、反対意見を言っているように聞こえることでも、つきつめていくと、結局、彼らが言おうとしていること、やろうとしていることは、同じことなのではないかと感じるのだ。 例えば、(例えばというにはいきなりな感じの話ではあるが)資本主義と共産主義は、結局、同じことであるというような。 真摯にやっていくと、そこに住む人々の人間性次第では、たぶん、主義も何もなく、同じ社会の状態に行き着くだろうということや。 例えば、さまざまな対立する宗教も、真摯に教えに耳を澄ませば、たぶん、何教も何もなく、同じ心の状態に行き着くだろうことや。 そんな大きな例えでなくとも、友達が必死にやっているレイキだの何だのと、私がコツコツ書いている文章とは、結局、同じことをしようとしているんだとか。 そんなようなことである。 同じように、理数系と文科系は、一見、対極線上にあるように見えるが、つきつめていけば、やぱり、そこにも同じものがあるのだろう。 つまり、レベルとかどうとかいうことではなく、必死に真摯にまじめに誠実にやっていることであるならば、それは、全てどこかでつながっているというような。 そのことが、つまり「科学的」ということなのかもしれない。 そういう意味では、「絵を描くことは、科学的である」ということは、本当にそうだなと思える。 (*1)小川洋子もそうだ。彼女の代表作に「博士の愛した数式」というのがあり、その題名に惹かれて読んだという経験がある。数学を愛する学者の、記号のような生活から、いろいろなことが伝わってくるすばらしい小説であった。小説以外にも(読んがことはまだないが)「世にも美しい数学入門」、「科学の扉をノックする」などといった興味深げなものも書いている。↑
by bp1219
| 2009-03-21 00:10
| ひびのこと
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