2011年 03月 26日
もしかすると、映画の中のキャラクターのほとんどは、任天堂か何かのファイティング・ゲームのキャラクターと重なっているのかもしれない。ゲームのストーリーを物語化するというより、ラブ・コメディーをゲーム風に仕立てた感じの映画。 ストーリーはとてもシンプルだ。 主人公のスコットはガールフレンドを捨てるのも、ガールフレンドから捨てられるのもあまり得意ではなく、本人の周りにはいつも不穏な空気が薄く流れている。 ある日、紫色の髪の毛をした女の子に出会い、これだ!と思うのだが、彼女はスコットと同じ星の下の住人のようで、彼女といると、次々に過去のボーイフレンドが現われ、スコットにバトルをしかけてくる、、というものである。 そのコンピューター・ゲーム風のバトルに入ると、スコットの目が白くなって髪の毛が逆立ったり、肩に下げた鞄の中から光る剣が出てきたり、龍が空を舞ったり、上手くパンチが決まると500などと数字が出てコインがちゃらんちゃらんと音をさせながら降ってきたりする。 すごくバカバカしい。 紫の髪の女の子は相当モテるタイプのようで、確か、7人くらいのEXがいる。 全てツワモノ。 結果として、果てしない感じでバトルをすることになり、パッケージは異なっても、基本形が同じシーンの繰り返しみたいな流れなのだが、なぜか飽きずに観ていられた。 ゲームにはお酒とかたばことかコーヒーとか炭酸飲料とかみたいに依存性があるが、その効果が映画にも現れていたのかもしれない。 ゲームとは怖いものだなと思った。 それで、結局、スコットがどうなったかと言えば、バトルを繰り返す中で、人の心のやわらかさに気が付くことになるのだ。 これまで、無造作にガールフレンド達を捨ててきたことに気が付き、申し訳なかったと思うようになる。 あまりと言えばあまりに単純なストーリー展開だと思っていると、紫の髪の女の子(その後、髪の色は青くなったりピンクになったりする)が、スコットに向ってこのように言った。 あなたは、これまで付き合ってきたEXの中で一番まともでいい人だったわ。 そうなのか?、、、、と思う。 スコットはまともでいい人なのか、、、、そうなのか?、、、と思う。 映画を通して、スコットが悪気なく女の子を捨てていく様子には、たとえ彼が20歳そこそこの男の子であることを差し引いたとしても、胸をげんなりさせるものがあった。 悪気のない感じのところが特に嫌だなと思って観ていた。 映画だからコミカルで面白いけれど、これを実際にやられたらたまらないのではないかと思って観ていた。 だから、改心した後、スコットが彼のEX達に誤りの言葉をかけたりして、彼女達が満足そうに微笑むのを眺めながら、なんて単純な展開なのだろうと思っていた。 でも、紫の髪の女の子が、「あなたは、これまで付き合ってきたEXの中で一番まともでいい人だったわ。」と言うのを考えてみると、だんだんとそうかもしれないと思えてきた。 確かに、スコットはフラフラしていて、面倒臭いことが嫌いで、女の子達にきちんとした別れの言葉すらかけられず、自分の悪の部分とも仲良くなってしまうような男の子だけれど(最後の大きなバトルの中で白黒のスコットが出てくる。「これは自分自身との戦いなんだ!」とか言って、スコットは白黒スコットと対決するのだけれど、結局、意気投合してしまい、「あいつ、結構いいやつだよ」などと言ったりする)、そういう部分は多かれ少なかれ誰にでもあることで、逆に、深い憎しみとか、ずる賢く立ち回るとか、そういうものがスコットの中にはないというほうが重要に思えてきた。 全体をざっくりと見て、誰かのことを「あなたはまともでいい人だ」と思えるというのは、なかなか気持ちの良いことなのではないか?と思えてきた。 最後の大きなバトルで、実は、スコットは一度負けている。 が、前のバトルで得たボーナスポイントでライフを一つ追加されていたのを思い出し、それを使ってもう一度バトルをやりなおすという展開があった。 すごくバカバカしくて面白いけど、実際の人生にはそういうのはない。 と、中年の私は思ってしまいそうになるが、でも、本当はありますね?と思い直す。 人生は何度でもやりなおしがきくのだった、、ということを思い出した。 映画を観ていて、自分がどれだけ肩に力を入れて生きているのかが少し分かったように思った。 ものすごく単純な映画のようだけれど、性能の良い按摩器みたいな効果のある映画であった。 追記:舞台はカナダのオンタリオ州トロントということになっている(主人公スコット役をやっているマイケル・セラの出身地はトロントではないが、オンタリオ州である)。 紫色の髪の毛の女の子はアメリカ人という設定だが、カナダに来てAmazon.caの配達のバイトをしているとか、バトル内でちゃらんちゃらんと振ってくるコインがちゃんとカナダ硬貨であるとか、細かいところでカナダ人には楽しめるところがあった(私はトロントからはだいぶ遠いが、西側のバンクーバーに在住である)。 Scott Pilgrim vs. the World公式サイト 2010年 12月 11日
女親が2人、子供2人の一家の話。アメリカのサン・フランシスコ郊外を舞台にした話であるが、老舗のサン・フランシスコでなくとも、このような組み合わせのファミリーというのはわりと多くなってきていると思う。 もちろん、まだまだ、彼らに対する偏見のようなものはあるのだろう。 いつだったか、アメリカか或いはカナダのニュース番組で、ゲイ・カップル一家がインタビューを受けているのを見たことがある。 一家の子供が「うちは人の寄り集まりではなくて家族です(We are a family not a bunch of people)」と言っていたのが印象的だった。 しかしながら、この映画は、ゲイ・カップルに対する偏見を背景にしたものではない。 ゲイ・カップル一家が一つの家族であることを当たり前の前提とした上で、家庭内の問題についてを題材にしている。 その問題は、決して、小さな(或いは軽い)問題ではないし、巷にあふれた問題というわけでもないが、位置付けが家庭内のことになっているのがポイントだと思うし、人との関係のあり方がくっきり見える問題だとも思う。 スパム・ドナーと、どのように関わっていくのか、ということである。 とても画期的なアイデアだと感心したのだが、この一家の子供2人は異母姉弟である。 2人の親のうち、あまりうるさいことを言わないおおらかな感じのほうが女の子を産み、保守的で大黒柱風のほうが弟を産んだ。 そして、両者とも同じドナーから精子の提供を受けている。 よって、娘と息子は異母姉弟ということになる。 個人的には、血の関係を重視するのはあまり好きではないので、矛盾したことを言うことになるが、それでも、これは素晴らしいアイデアのように思う。 それでなくても、難しくセンサティブな問題が持ち上がりやすい家族形成において、弱くなりがちな心を強く保つための、ちょっとしたテクニックのように思った。 心をわずらわす要因は、できるかぎり排除しておこうという気合が感じられる。 センチメンタルな思いよりも、何かもっと、大胆で成熟した気合だ。 しかし、心はわずらわせれることになる。 私は知らなかったのだけれど、スパム・ドナー(逆に言えば、提供を受けた女性と)連絡を取り、直に会うことは可能なようだ。 もちろん、人によっては、コンタクトを避ける人もいるから、自分のファイルをオープンにするかどうかの選択は本人に決める権利がある。 映画では、姉弟の側にドナーに会いたいという意思があり、ドナーのファイルはオープンだった。 姉は18歳に達していたため、親の許可なしに彼らは連絡を取り合い、ストーリーが進んでいく。 拍子抜けするくらいに全ては上手くいく。 親2人はあっさりとドナー登場の事実を知るが、そのハードルも簡単にクリアーされる。 親にはないものをドナーが持っていることは明らかで、親戚の若いおじさんか、年上のいとこか何かのように、つまり、親とは違う距離間を持った大人という立場で、姉のほうとも弟のほうとも親密になっていく。 傍から見ていても楽しそうだ。 もとからそれなりに上手くいっていた4人家族の中にさわやかな風が流れ、誰もが大きく深くしっかりと息をするようになっているのが感じられる。 弟がドナーに尋ねるシーンがある。 精子を提供すると、幾らくらいになるのかと。 両親のなりそめを知りたがる子供というのがいるが、確かに、そこには自分が生まれ出てきた理由というかきっかけというものがあるのかもしれない。 同じ意味合いの回答を得たい場合、弟としては、上記の質問をすることになるのだろう。 その値段の高さ(或いは低さ)によって、何かしら判断できる材料が出るのかもしれない。 少し困った顔はしたものの、ドナーは正直に答える。 60ドル。 ドナーの説明によれば、インフレの上昇率を考えると、当時としては80ドルくらいの価値があったし、80ドルは決して少ないお金ではなかったということだ。 つまり、弟が(或いは姉、或いは他の多くの同じ立場の子供が)想像した通りに、お金のために精子を提供したわけだ。 しかし、すぐにドナーが言う。 まっすぐに、弟の目を見て言う。 「I’m glad I did (提供して、良かったと思うよ)」 個人的にとても好きなシーンで、映画にメッセージのようなものがあるとすれば、たぶん、それはこれなのではないかと思う。 少なくとも、私が受け取ったものはここにあった。 これほどストレートに、素直に、何の混じり気もない気持ちで、自分の存在を認められ、受け入れらた経験を持つ人があるだろうか? ゲイ・カップルとか、精子提供とか、代理母とか、いわゆる「自然ではない」と考えられてきた行為によってのみ感じられ、感じさせられることというのがあることを知った。 しかし、心はわずらわされることになる。 それは子供のほうではなく親のほうだった。 姉を産んだおおらかな女性はどちらかというと母親役で、弟を産んだ大黒柱の女性は父親役なのが見て取れる。 父親のほうはドナーに無闇に挑戦したり、批判したりするようになる(としか言いいようのないように見える)。 母親のほうは彼と浮気をする。 書いていて、ふと思ったが、この映画の題名はそういう意味なのだろうか? 子供とドナーとの関係が互いの性格や人柄によって成立しているのに対し、親2人のほうは、自らの父親としての(母親としての)立場から、人としての関係ではなく、位置関係を作ろうとしているみたいだ。 映画は結局、ドナーを家族の枠の外へ追い出すことにより家族がいつもの調子を取り戻し、再び仲の良い4人になる。 この結末には非常に不満があった。 客観的に見れば、これもまた、それでなくても、難しくセンサティブな問題が持ち上がりやすい家族形成において、弱くなりがちな心を強く保つための、ちょっとしたテクニックなのかもしれない。 物理的な血のつながりがあるからと、安易に家族になれるわけではないという意味なのかもしれない。 しかし、この家族は、ドナーから受け取りたいものだけを受け取り、関係がややこしくなったところで、パッと捨てただけに見える。 父親としての自分の立場が心配な親にしろ、浮気をしてしまった親にしろ、そもそもドナーに会ってみたいと最初に言い出した弟にしろ、ドナーと最も良い関係を築き上げていた姉にしろ、一人一人を見ていると、何ら、ネガティブな気持ちは起こらない。 一人一人を見ている限りでは、自分もドナーの肩を持ったりはしないのかもなと思ったりもする。 浮気をした母親のほうを許し、たまった感情はドナーのほうに投げるかもしれない。 父親の嫉妬からくる行為は水に流し、寂しい思いをさせたことを悔やむかもしれない。 でも、出来れば、そうしたくないと思う。 4対1はいくら何でもひどいと思う。 或いは、結果は、ドナーを切り捨てることしかないのかもしれないが、どんなに映画が長くなろうとも、その残酷な行為を行う心の過程をきちんと描いて欲しかったと思う。 それがなかったために、さわやかに、家族の深い絆を現しているような絵づらのラスト・シーンは薄っぺらで陳腐に感じられた。 それはそれにしても、母親役のジュリアン・ムーア(Julianne Moore)と父親役のアネット・ベニング(Annette Bening)はとてもつもなく上手かった。 The Kids Are All Right 公式サイト 2010年 01月 07日
感想を書けば書くほど、そういうことだったのかな?という風に思うことになるので、何度となく書き直した結果がここにある。映画は、コミカルでもありシニカルでもあるラブ・コメディを装っているのだけれど、観終わった後に、しーんと心に残るものがあり、それはわりといつまでも残り、自分の(或いはいっしょにいる人の)行動やら何やらを振り返り、考えをめぐらせることになる。 主人公は付き合い始めた若いカップルの2人で、彼らが破局へと向かうまでの500日を描いたものである。 棘のある言い方になってしまうけれど、男の子のほうの愛というのは、わりと市民権を持ったタイプのものだと思う。 盲目的で、一途で、素直というような。 彼が友達やら妹やら同僚やら誰やらに、片っ端から相談している様子などがずーっと映し出されるから、余計にそのように感じるのかもしれないが、一途で素直な彼の500日のほとんどは、ガールフレンドに振り回された日々だったという風にも見える。 一方で、そのガールフレンドの言動というのは、男の子の目線程度にしか描かれておらず、何を考えているのかは彼女のみが知っているということになっている。 60年代を意識した服装や、クールな考え方ものの見方、時として取られる派茶滅茶な行動、男の子よりもずっと成熟していて大胆なベッドの上での過ごし方などなどを見ていると、彼女にとっては、その500日のほとんどは、退屈しのぎの日々だったという風に見えなくもない。 別れを切り出したのは、当然、彼女のほうだ。 だから、ともすると、彼のほうに肩入れしそうになるのだけれど、よくよく考えてみると、彼女の愛というのは、さまざまな悲しみをたっぷりと抱えた、やわらかくて、みずみずしくて、こわれやすい、でも強くもある、すごいものなのではないかという気もしてくる。 とてつもなく個人的で、だから、その分、分かりにくくもあるわけだけれど。 どこかで誰かが、若い頃にはたくさん恋愛をしたほうが良いと言っていた。 人を心から愛した経験は、その後の人生の大きな支えになるからと。 彼女は、そうした経験をしてきているのかもしれない。 彼女が悲しそうなのに強そうでもあるのは、何かが彼女を支えているのかもしれない。 そして、その一方で、人を心から愛すると、その行動は、傍目には、とてつもなく自己中心的で我侭で他人を振り回しているように見えるのかもしれないとも思う。 彼女の言動を振り返ってみてそう思った。 相手のことを気遣い、相手の好むことをしようとするような余裕がなくなってしまうのかもしれない。 子供が自分の好きなものばかりを集めて遊ぶように。 その全てが無意識なように。 もちろん、それが、大人として、或いは人間として、或いは人間関係として、正しいとか間違っているとかいう問題ではなく。 ただ、単に、そういうことになってしまうものなのかもしれない。 でも、その愛が何かに転じたときには、すごい力を発揮するのだろう。 2人の最後のシーンがとても良い。 彼女の悲しみを抱えた愛が充満しているような色合いの冬の公園のベンチ。 そこは、彼が、この街で最も好きな場所として、時々2人で来ていたところである。 別れた後には、頑なな感じになってしまった彼と、ここでなら会えるかもしれない。 そう思って、彼女は時折りやって来てはぼんやりと座っていたらしい。 別れ話を持ち出したのは彼女のほうだけれど、これからも友達みたいに付き合っていきたいと言ったのも彼女のほうだったのだ。 振られたほうとしては、なかなか受け入れ難い相談である。 でも、彼女がそうしたい理由(或いは感覚)が、今では私にも少し分かるかもしれない。 その感じが彼にも伝わったのか、まさに、力を振り絞るような感じで、彼女のこれからの生活が幸せになるといいと本当にそう思うよと言ってあげることが出来た。 何とか言えたという程度ではあったけれど、でも、言えた。 そのことを言えたことで、彼は彼女を心から愛した、その存在を丸ごと受け入れたことに出来たんじゃないかと思う。 彼の愛は、そこへたっぷりとやってきた悲しみを、やわらかく、みずみずしく包み込み、こわれやすいけれど、その分強く育ったのではないかと思う。 題名にあるサマーというのは、女の子の名前だ。 妙な感じのする題名だと思っていたのだけれど、なるほど、これはまさに、彼女の500日だったなと思う。 (500)日のサマー公式サイト 2009年 05月 09日
題名からも分かるように、地球交響曲はシリーズもので、今回はその第六番目である。シリーズを通して、ずっと映画を監督し続けている龍村仁氏は、繰り返し、人類の記憶について言及している。 私達の中に眠っている数千年から一万年の記憶を蘇らせたいと。 人間の記憶というのは、何かのきっかけでわっと出てくる。 つまり、頭の中に保存されるものではなく、別の場所にあるのではないか。 それは、自分だけの記憶ではなく、遠い祖先の記憶なのではないか。 一本の木が持っていた記憶かもしれないし、動物たちが持っていた記憶かもしれない。 その辺に漂っているものなのではないか。 これから書くことは、ブログ内のあちこちで何回か書いていて、だから、同じことを繰り返すようでもあるが、映画を観ていて、その考えの意味することが少し見えかけてきた感じもあるので、改めてここで書いてみたいと思う。 その考えとは、「多くの人が言うことは、使われる言葉や言い回しが違っているだけで、実のところ、同じことを言っている」というものだ。 例えば、ヨガだのレイキだのというものをやっている人がしようとしていることと、私が文章を書くことによりしようとしていることは同じとか、究極的なことを言えば、資本主義と共産主義の行き着くところは同じとか、そんなようなことである。 もちろん、適当に言っているようなことにはこの現象は当てはまらないが、それが成熟した考えであるからとかそういうことでもなく、真摯に誠実に考え、体験した末のことである場合、一見反対意見のように聞こえたり、或いは、全く別の話をしているように思えるようなことでも、よくよく聞いてみると、大抵、同じことを言っているようだと思うことがよくある。 先日、知人とのメールでのやり取りでも、同じようなことがあった。 私が「友達とは、誰とでも仲良くなれる可能性を秘めているという意味合いにおいて、偶然出会った人々である」と言ったのに対し、彼女は「周りを見回して、嫌な人ばかりになったなと思ったら、自分の毎日の生活を考え直さなければいけないのだと思う。そういう意味で、友達は必然的に自分に与えられた存在だと思う」と述べた。 知人の言うことをじっくりと考えてみると、それは私が感じているものと同じなのではないか?という気がしてきた。 例えば、中学校の入学当初の席順が名前順だったため、鈴木さんは佐藤さんと隣り同士になった。 けれど、佐藤さんは目が悪かったから、前の方に座っていた目の良い阿部さんと席を交換してもらった。 阿部さんの隣りには伊藤さんが座っていた。 その結果、鈴木さんは阿部さんと仲良しになり、佐藤さんは伊藤さんと仲良しになった。 佐藤さんがしっかりしたコンタクトレンズでもしていたなら、鈴木さんはきっと佐藤さんと仲良しになり、阿部さんは伊藤さんと長い付き合いをするようになったのかもしれない。 つまり、この4人は、どのような席をあてがわれても、結局、(もちろん100%そうであるというわけではないが)周りに座った人の中に、中学校生活を共に過ごす、或いは、その後何年も、或いは、生涯を通じての友達を見つけていくことになるのではないか。 なぜなら、どのような人にもさまざまな側面があり、そのどの部分を見るか、或いは、その部分をどう見るかによって、友達になりえたり、なりえなかったりするのだと思うからだ。 鈴木さんは、それが阿部さんであれ、佐藤さんであれ、或いは誰であれ、その子の奥底にある魅力的な点や、自分と共有できる何かを探しあて、友達関係を作っていくのだろうと思う。 別の言い方をすれば、その能力の発揮の仕方によって、友達を作れるか作れないかが決まるのであり、また、どんな風な付き合いをしていくのが決まるのであり、隣に誰が座るのかはあまり関係ないように思われる。 この考え方は、知人の言う「周りを見回して、嫌いな人が増えてきたら、それは自分がそういう気持ちを持っているからだ。」ということと同じなのではないかと思うのだ。 私はそれを「偶然」と呼び、知人は「必然」と呼んだ。 或いは、一連の流れの中の、どの部分を見るかによって呼び名が変わるということかもしれない。 私は流れの最初の方に焦点を置き、知人は後ろの方に焦点を置いたということかもしれない。 臨床心理学者の河合隼雄氏の本によると、人間の心は大きく、意識、個人的無意識、普遍的無意識の3つに分かれているという。 彼の考え方をかなり乱暴に大雑把にまとめるとそういうことになる。 そして、全ての人間に共通する考え方のパターンやイメージが、普遍的無意識の中に存在するのではないかと考え、世界各国の神話や童話の基本的な主題が似通っているのは、そのためではないかと述べている。 河合さんの生涯をかけた研究に照らせ合わせるなど、大変に失礼なことではあるが、私の感じる「実のところ、皆、同じことを言っている」は、この普遍的無意識に関係するのはないかという気がしている。 前置きが非常に長くなったが、「地球交響曲 第六番」を観ていて、映画によって表されているものの中には、この普遍的無意識ということが背景にあるのではないかと思った。 第六番だけのことではなく、これまでシリーズとして作成されてきた第一番からずっと、そのことを表し続けてきているのだと思う。 個人的には、第六番以外には第二番しか観たことがなく(それも、第二番は大分前に観たものであり、内容もあまり覚えていないので)、これは個人的な想像に過ぎないわけだが、映画の後に行われた監督(龍村仁氏)の講演や、その時に購入して読んだ同監督の本「魂の旅-地球交響曲第三番」から、そうなのではないかと感じた。 映画は、シリーズを通して同じ構成で撮られている。 3~4人の人物を対象にしたドキュメンタリーである。 今回の第六番では、「全ての存在は響き合っている」とし、音という観点から、インドの音楽家・ラヴィ・シャンカール(Ravi Shankar)、ピアニストのケリー・ヨスト(Kelly Yost)、そして、鯨研究者のロジャー・ペイン(Roger Payne)が出演者となっている。 個人的には、2番目の出演者である、ケリー・ヨストさんの話具合に、最も気持ちにしっくりとくるものがあった。 こう言っては何であるが、彼女は売れないピアニストであるようなのだが、そういうことはあまり気にせず、好きなピアノを引き続けている人のようだった。 見た目は、所謂アメリカの品の良い白人のご婦人という感じで、暮らしぶりも良いようなので、のんびりとピアノを弾いていても、生活が成り立つのだろうなと思わせてしまう印象があった。 そのように、ぱっと引き込まれるようなインパクトがまるでないところへ、癌を患ったことがあって、、、という話が出てきたりもしたので、誤解を受けるようなもの言いになってしまうが、「全ての存在は響き合っている」というのとは、少し違うのではないだろうかと思ったりもした。 しかしながら、再び失礼なもの言いを繰り返すと、その辺りにいくらでも転がっているような彼女の生い立ちや友達との関係についてが、静かに淡々と語られていくうちに、私は、何とも言えない心情になっていったのである。 特に、ケリーさんにピアノのレッスンを受けているという女性との昔話のところでは、確かに、2人の深い間柄を証明するような良い話ではあったものの、客観的には、心を震わせて泣くまでのことではないと思うのだが、実際には、心震わせて涙ぐんでしまった。 時々、心の鐘が鳴らされていると感じることがあるのだが、画面を見ながら、鐘が静かに鳴り始めるのを感じた。 正直に言うと、映画の中で演奏された彼女のピアノの音に何か感じ入るということはなく、それよりは、推測するに、彼女の不器用な感じの誠実さのほうへ心打たれたのではないかと思う。 私は立派な人間では全くないが、普遍的無意識ということにこじつけるなら、私の中に、何かそれに呼応する生き方が存在するのかもしれないと思った。 それと似たようなことが、最後の出演者である鯨博士の話の中でも起きた。 彼は、世界的に有名な海洋生物学者で、ザトウクジラが、人間のつくる音楽と非常に似た構造の歌を歌うことを発見したということだ。 博士の研究内容は非常に興味深く、例えば、シロナガスクジラは、数頭いれば、彼らの発する音(超音波)により世界一周規模で交信が可能であるとか、イルカの場合には、それが網のような役割をして魚を捕らえることが出来るなど、いくら聞いていても飽きない話が盛りだくさんであった。 調査船に乗って夕方の大海原へ出、特性のマイクを通して鯨の歌を聞く様子は、壮大で雄大で、文字通り、胸がいっぱいになった。 しかし、私が最も感動したのは、別のところにあった。 彼は、幾度にも渡って調査を重ね、ザトウクジラが作曲した歌を譜面にしている。 我々が譜面として目にするような、五線の上にオタマジャクシが踊っているのとは少し違うが、一定の決まりがあると思われる鯨の歌を、博士なりの記号に置き換えて書かれたものだ。 博士によれば、詩を詠むのに韻を踏むのは、暗記しやすいようにというのが始まりらしいが、ザトウクジラの歌もまた、同じ調子の音を繰り返す性質を持っているということである。 15分などという長さで続く歌の合間合間に同じ調子の音が入るのだそうだ。 韻を踏むというよりは、サビみたいなものかもしれない。 そして、同じ歌を何度か歌っていたかと思うと、新しいものを歌うようになるそうだ。 このようなところも、人間の音楽に対するのと大変に似ている。 この辺りのことを、博士は、鯨が人間と同等の複雑な精神活動(人間の知性にあたるもの)が出来ることを意味すると言っていた。 それほどの高い知的能力を何に使っているのかと。 彼らはいったい何を歌っているのかと。 そして、譜面にしたザトウクジラの歌を歌ってみせた。 その歌を聴いていたら、なぜだか分からないが、心深くにじーんときた。 先ほどの、売れないピアニストのケリー・ヨストさんの場合とは少し違って、鐘が鳴っているという感じでは正直なかったが、どこかで聞いたことのあるような、例えば、何年も前に何かがあった時に繰り返し聴いていた曲が街中で流れているのを耳にし、何があったのかは思い出せないのに、胸ばかりが苦しくなるような、そういう感じにじーんときた。 映画の中では、ザトウクジラが歌っている本物の歌声も少し流れていたりしたが、そちらにはあまり心を動かされなかったにもかかわらず、博士自身が歌っているものに涙してしまったのである。 「普段は人前でこんなことはしませんよ」と、インタビューの流れから、ついつい興奮してしまったことを照れ、「ちょっとした余興です」というようなもの言いをしていたが、私にしてみると、大変な余興を観てしまったことになる。 再びこじつけなのかもしれないが、普遍的無意識は人間の間だけでなく、動物や植物にもあてはまることを意味するのかもしれないと思った。 反応の鈍い私は、鯨とのそれにしっかりとつながっている博士の歌声を通して初めて、反応することが出来たのではあるまいか。 そして、博士が知ろうとしていること、高い知的能力を何に使っているのか、彼らは何を歌っているのかを、博士は研究の成果から知るのではなく、その過程の、真摯に研究を行っている日々から知ることになるのではないかともふと思った。 地球交響曲の出演者は、さまざまな分野で活躍している人で、一見、どういう基準で出演が決まったのか分からないし、映画を観ても、その感じは変わらない。 しかし、思うに、さまざまな流れの中で、普遍的無意識の領域に触れながら生きている人の生き方をドキュメンタリーにしている(することになった)のではないかと思う。 だからこそ、自分とは何の関係もない興味の世界に生きている人々(例えばピアニストとか、鯨研究とか)の話を聞いているのに、鐘が鳴っているように感じたり、過去の記憶を呼び覚まされているような気持ちになるのではないか。 「多くの人が言うことは、使われる言葉や言い回しが違っているだけで、実のところ、同じことを言っている」と感じるのは、この感覚から派生するもののように思う。 そして、それが、監督の言うところの太古の記憶なのかもしれない。 監督は、映画後の講演会の中で、こんなようなことも言っていた。 地球は大きな生命体であり、その一部分として人間は生き、生かされている。 日々、いろいろと努力したり苦労があったりという生活の背後には、大きな命のつながりがある。 映画の出演者達は、自分の生き方を貫いている。 好きなことを勝手きままにやっている。 しかし、逆に言うと、その生き方の中から、自分の力だけではない周りの人のお陰で生きているという感覚を体感している人達であると思う。 出演者達がやったり言ったりていることは、自分の知っていることかもしれない。 やっていることは別々だが、この人のベースにあるものは私自身の中にあるものと同じかもしれない。 という感覚を観ている人に感じて欲しい。 周りの人のお陰で生きている、生かされているという記憶は、それぞれの人の中にあるはずだから、映画を観ることによって、それが蘇ってくればうれしいと思う。 私自身が、そこまで分かったかどうかは分からない。 しかし、これまでに長々と書いたように、記憶を共有していることだけは、深く実感できたと思う。 あとは、自分のやれること、私の場合には、きっと文章を書き続けることだと思うが、それを続けていくことなのだろうなと思う。 そうすれば、博士が知りたがっている鯨の神秘を私も知る日がくるのだろう。 地球交響曲公式サイト 2009年 05月 02日
おくりびととは、納棺夫(納棺師ともいうようだ)のことをいう。納棺夫とは、亡くなった人の身体をきれいに洗い清めた上で旅立ち用の装束に着替えさせ、 お棺に納める作業を行う人のことである。 多くの場合には、葬儀屋が納棺夫の仕事も含めて葬式全般を執り行うことが多いようだ。 そういう意味では、おくりびとというのは、何も納棺夫だけを指すことにはならないわけだが、映画の中では、葬式というよりは、納棺夫の仕事に焦点をあてていることから、とりあえず、おくりびと=納棺夫ということにしておく。 私はもともと、死について強い興味を持っており、アメリカのテレビドラマ「Six Feet Under」を観ていたく感動し、このブログ内に長々とした感想を書いたことがある。 葬儀屋一家の話であった。 この一家は、前述した日本での一般的なやり方のように、葬儀屋として納棺夫の役割も果たしていた。 アメリカでは、土葬する場合がほとんどであり、また、葬儀を行っている間、お棺を全開した状態にし、遺族がゆっくりと別れの時間を過ごす習慣がある。 そのため、遺体を長時間保存しておく技術(エバーミング)が発達している。 ドラマの中でも、エバーミングを行う場面が頻繁に登場していた。 この技術は、保存のことだけでなく、例えば、大事故にあって亡くなった人や、死後かなり経過している人を扱うケースでは、その人達の外見を普段の様子に近づけるべく修繕も行う。 「Six Feet Under」では、エバーミングの腕の良さに高い誇りを持った人物が登場する。 彼は、まさに人体を「修繕する」という感じで、それが困難な作業であればあるほど、闘志を燃やしていた。 そして、遺体を、亡くなった人の身体というよりは、修繕を施す対象物として見ているような印象を受けた。 それは、もちろん、きちんとした仕事をしている姿として表現されており、また、彼の仕事に対する真摯な態度や思いについて充分な描写が行われていたこともあり、ドラマを観ている視聴者が不愉快な気分になるという類いのものではなかったと思う。 しかしながら、私の個人的な感覚から言うと、前述した通りに、ドラマ全体に対しては、非常に大きく心を動かされたにもかかわらず、このエバーミングの部分にだけは、受け入れがたいものを感じていた。 その理由を自分なりに考えてみると、身体に対する考え方、感情の含め方、尊厳の表し方が、彼とは、(そして実は「Six Feet Under」のほとんどの登場人物とは)違うからではないかと思う。 この違和感は、「Six Feet Under」だけに限らず、北米で生活している現在の日常のいろいろな場面で感じているもので、生きている人間の身体についてはそれほどでもなく、逆に言えば、彼らと似たような感覚を自分は持っているのではないかと思うが、それが遺体である場合には違和感が顕著になるように思う。 それが、西洋人と日本人の違いなのか、人々と私との違いなのか、その辺はよく分からないまま、受け入れがたいという風に思っていた。 そして、今回、「おくりびと」を観て、その納棺夫の仕事ぶりに深く感動した。 私自身の、身体に対する考え方を実に美しい形にしていてくれたからだ。 私はこのようなやり方で身体を扱って欲しかったのだと深く思った。 それは、とても厳粛な儀式のようでもあった。 まず、お焼香をあげ、手を合わす。 遺体のそばにゆっくりと座り、遺体が寝かされている布団をめくる。 胸の前で組まされている腕をマッサージするようにほぐし、指を一本一本丁寧に解き、身体の左右に横たわせる。 めくった布団を戻す。 かけ布団と身体の間へ手を入れ、遺体が着ていた浴衣の紐を解いていく。 遺体を器用に動かしながら、そろりそろりと着物を足元までずらしていき、すっと引き抜く。 今度は、布団の上から、今引き抜いた浴衣をかけ、首のまわりに襟の部分を差し込んで固定する。 そして布団をさっと引き抜く。 お皿やコップの載ったテーブルから、テーブルクロスを引き抜く芸があるが、ちょうどあんな感じである。 一瞬の動きの後で、舞い上がった空気が沈殿するのを待ち、消毒液の入った水を小さな桶にはり、その中に布を浸してやさしく絞る。 湿ったその布で、首筋から腕、手、胸元から序々に身体全体を清めていく。 遺族の座っている方へ遺体を向かせ、背中もしっかりと清める。 まるで寝返りをうったかのように自分のほうを向いた祖父(祖母、妻、或いは息子、娘)に、一瞬遺族は息を呑む。 そして、熱を出して寝込んだ晩、汗をかいた身体を母親(或いはそれに代わる人)に拭いて貰ったときのような感覚を味わう。 あの時の匂いや体温が漂ってくる。 実際には、ほんのりと消毒液の匂いがするのだろうし、遺体はひんやりと冷たいはずであるが、その現実とは別の次元で、生暖かいものが漂ってくるような気配がある。 身体を清めた後には、装束の用意をする。 絹の光沢のあるやわらかい着物の前を自分のほうへ向け、左右反対に腕を通す。 そうして、着物を大きく広げる。 遺体の上に丁寧にかけ、片腕を通す。 重い遺体をソロソロと動かしながら、背中のほうへ着物を回し、逆の腕を通す。 着物の前を合わせ、2重になった襟元がピシッと揃うように整える。 最初に解いた腕をもう一度胸の前に持っていく。 硬くなってしまったそれらを、ゆっくりと曲げていき、再び指を交互に重ねる。 そうして組ませた遺体の両手を包み込むように自分の両手を載せる。 ぐーっと横たわった胸のほうへ押し返す。 旅立ちの準備を知らせるようにぐーっと押してやる。 強張った顔をマッサージする。 まるで、スパか何かでリラックスさせてあげるように、こめかみから頬、口元にかけて、小さな円を幾つも描くように、マッサージする。 着物と同じ、きれいに光った布でそっと顔を隠し、鼻の穴と口の中に綿を入れて、自然な膨らみを持たせる。 肌の色に合ったファンデーションを選び、顔全体に化粧をする。 眉毛を梳かし、ペンで整える。 女性であれば、日頃使っていた口紅を出してもらい、筆でゆっくりとひく。 これらの作業をする間、納棺夫はほとんど言葉を発さない。 遺体に触れるのも注意深く最低限に留められ、遺体の肌があらわになることが決してない。 そこにあるのは、文字通り、ある人の亡骸であるが、まるで、その持ち主が傍に座って見ているかのように、注意く、丁寧に扱う。 化粧を済ませた後には、傍らに座って観察していたその人自身が、懐かしく思い出すような、おだやかな暖かい寝顔になる。 映画の中では、さまざまな納棺の様子が再三に渡って映し出される。 亡くなった人の生前についてが語られることはほとんどなく、映画を観ている者は、見ず知らずの人の納棺の儀式に立ち会うことになるわけだが、厳粛に、心が静かになっていくのを感じることが出来る。 と同時に、感謝の気持ちに似た、しかし、それとは若干激しく強い感情が、心の底からわきあがってくるのも感じられる。 これは、たぶん、納棺夫に対するものではないかと思う。 劇中、納棺夫の事務所で働く女性が、「この人に納棺してもらいたいと思った」と言うシーンがあるが、まさにその感覚である。 この人に任せておけば、何ら心配することなく、ゆっくりと死んでいけると思えてくるのだ。 この事務所の女性にしても、日頃から納棺夫といっしょに働き、その人柄や仕事ぶりを長年見ていてそう思ったわけではなく、出席していた葬儀の納棺夫がたまたまその人であり、初めて見た納棺の様子でそのように思ったということになっているように、その信頼感のようなものは、納棺夫の人柄とかいうよりは、納棺ということや、人が死ぬということ、ひいては生きるということを、きちんと人格の深いところで理解できている人から漂うものを感じたということなのではないかと思う。 人柄ということを言えば、この納棺夫は、仕事を終えた後に、例えばケンタッキー・フライドチキンの類いや、ふぐの白子などというものを豪快に食べる。 「困ったことにおいしいんだ」と言いながら、バクバクと気持ち良く食べる。 当然のことながら、その描写には、死体に対して何も感じなくなっていることを表現しているわけでは全くなく、今さっき納棺を済ませてきた人と同じように、少し前まで生きていたものを殺して食べることにより、自分が生きているということをきっちりと理解した姿を表そうとしているのだと私は思った。 また、同じように、精子(白子とはつまり精子である)を体内に取り込むことにより、遺体の性に対する衝動を飲む込む姿を表そうとしているように感じられた。 前出の「Six Feet Under」でも、豪快に食事をするシーンは何度も出てきた。 しかし、それは、作業中の遺体を前にしてランチを取るなど、死体に対して何も感じなくなっているとまでは言わなくとも、繰り返しになるが、やはり、修繕する対象物として、人の亡骸が扱われているという印象が強かった。 つまり、「おくりびと」の納棺が儀式であるのに対し、「Six Feet Under」のそれは作業であるということなのだろう。 繰り返しになるが、「Six Feet Under」でも、その仕事ぶりは真摯なものであったことは確かであるから、儀式と作業とどちらが良い悪いというものでもないと思う。 自分として、亡骸についてどう感じるのか、死ぬ際に、どちらの過程を通りたいと思うのか、或いは、遺族として、どちらが納得できるのかと、そういうことだろうと思う。 そういう意味では、「おくりびと」を観て深く感じた人は、「Six Feet Under」を観ても深く感じ入るところがあるだろうと思う。 そして、当然、「Six Feet Under」を観て深く感じた人は、「おくりびと」を観て感動することになるだろう。 「死ぬ」ということをどのように扱いたいかが分かるということは、「死」を感じられるということであるのだろうから。 先ほどから納棺夫納棺夫と呼んでいるのは、実は主役のモッくん(本木雅弘)ではなく、彼が勤めることになった納棺屋の社長(山崎努)のことである。 モッくんは、いろいろあって故郷へ帰り、求人広告を出していた社長のところで働くことになる新米納棺夫を演じている。 映画の背景として、新米の彼が、徐々に、納棺夫の仕事を身体で理解していくことにより、彼自身の心の影ともうまく折り合いをつけていく様子や、彼の妻や幼馴染、近所の人など、周りにいる人々の死に対する考え方などが描かれている。 死を全く拒否してしまっている人、納棺を見て変わっていく人、死が生活のそばにある人など、さまざまな人が登場する。 その中で、観ている観客は、自分がどの辺りにいるかによって、映画に対する印象は随分と変わるのではないかと思う。 個人的には、モッくん自身の心の影の部分のストーリーはもう少し違った形でも良かったのではないかと思った。 率直に言えば、もっと削ってしまって構わなかったのではないか。 特に、最後のシーンでは、折角近づいてきた死が、さーっと遠のいてしまったように感じた。 納棺についてを、また、死に近いところで生活している人の姿をもっともっと映して欲しかったように思う。 しかし、それはそれとして、日本の納棺の様子を、それが儀式のように美しく執り行われる様子を知ることができたのは、私にとって非常に大きかったと思う。 最初に触れたように、自分自身の身体に対する感じ方というのが、どの辺りから来ているものなのかが分かったように思った。 そして、映画の中で、納棺の儀式を見て、大きく心を動かされている人々を見て、自分と同じような感じ方をする人達が数多くいることを知ったことも大きかったように思う。 その上で、もう一度、「Six Feet Under」を観返してみると、前とは違った印象を持つのかもしれないと思っている。 たぶん、私がおくりびとを必要とするように、別の何かを必要とする、或いは大切にすることにより、結果として、身体に対する扱い方が、あのようになったのだということを、意識の深いところで理解できるようになっているのではないか、というような気がしている。 おくりびと公式サイト 2009年 01月 31日
1970年代後半のアメリカ、カリフォルニア州サン・フランシスコにおいて、市議会メンバー(member of the San Francisco Board of Supervisors)として当選したハービー・ミルク(Hervey Milk)を追った数年間のお話である。その数年間が映画にするほどドラマティックだと判断される理由は、同性愛者である彼が、それを公言した上で出馬し、晴れて当選した初の政治家だったからである。意地悪な言い方をすれば、チャンレジ精神、大きなものにぶつかって行くことを描いた多くの映画と同じように、それは、映画が面白いというよりは、その題材が面白いという印象が強かった。もちろん、題材の中のどの部分を強調し、どの部分を弱めるといった匙加減によって、映画の色は変わってくるだろう。ドキュメンタリー色の強い固めの話になることもあれば、コメディーに近いような仕上がりになることもある。 そういう点で言えば、「Milk」においては、そのバランスは絶妙で、ミルク氏をはじめ、彼を取り囲む人々のドキュメンタリー的な固さ(或いは暗さ)とコメディー的な軽快さをエンターテイメントにし過ぎてしまうギリギリ一歩手前のところで、うまいこと調合していたように思う。登場人物はたぶん90%以上(もしかすると100%)が実在の人物なのであるが、その一人一人にしっかりとした、映画の登場人物になりうる濃いキャラクターをつけ、多大なる脚色を施している(ように見える)にもかかわらず、重くシリアスなメッセージをもしっかりと伝えていたと思う。 この映画の中での物語の軸となっている「同性愛者」というのは、一つの例であるだけなのだろう。「大多数の人とは異なるもの」或いは「力を持ったものとは異なるもの」、或いは「これまでの概念になかったもの」、何でもいいのだけれど、そういったものの一つの代表例であるだけなのだろう。だから、ここで、特に「同性愛者」について考える必要はないのかもしれない。が、しかし、映画を観ていて、改めてしみじみと感じたことがあったので、単に、私がしみじみと感じたという意味合いにおいて書いてみたいと思う。 「同性愛者」について語られるとき、それが先天性であるとか、後天性であるとか言われることがあり、多くの場合には、先天性であるのならば避けようがないとか、それはつまり自然なことであるとか、後天性ならばそれは宗教的な行いに反するとかいう議論に持っていくための論述だったりする。 個人的には、それがどちらであれ、あまり重要な点ではないと思うが、それはそれとして、「同性愛者であること」は、先天性でもあり後天性でもあると思う。そして、それは同様に「異性愛者であること」にも当てはまることなのだとも思う。ひとことでいえば、それは「社会性」だ。つまり、もともと、人を愛するという本能が人間には備わっていて(先天性)、成長の過程において「男と女が組み合わさるのが普通」という考え方を教えられることにより異性を相手に選ぶようになる(後天性①)のが「異性愛者」で、その教えてについてを「組み合わせ」の問題よりも「愛」の部分に重点を置いて聴く、或いは教えなんて聞いていない人というのがいて(後天性②)、そういう人の中には、同性を選ぶ人もいるのだろうということだ。 この考え方は、数年前に「Brokeback Mountain」とうい映画を観ていて思ったことで、その理由は自分のホームページに書いたことがあるのでここでは割愛するが、今回の「Milk」では、俳優たちの演技を見ていて同じことを思った。 映画の中では、主人公のミルク氏はもちろんのこと、彼を取り囲む人々というのも、大抵が同性愛者である。そして、わりに頻繁に彼らのベッドシーンが画面に写されるのだけれど、それが非常に自然である。ベッドシーンに限らずとも、ちょっとした目の動きとか、ふと誰かの肩に触れるとか、嫉妬した表情とか、それは、普段、人々が好きな相手に対して出すものと全く変わりのないものとして私の目には映った。 俳優がよく「役作りをする」と言うが、それは自分が演じる人物にシンクロナイズするようなことを言うのだと思うが、シンクロナイズ出来るということは、自分の中にその要素があるということだと思う。だから、手持ちの要素がなさそうだと思えば、例えば、全く知らない土地の生まれの人物だとか、特殊な職業に付いている人物を演じるとなれば、その土地に出かけて行ったり、その職業について訓練を受けることだってある。そうすることにより、自分の中にある人物と同様の要素を開花させたり、近い要素を必要な要素に近づける作業をするのだと思う。 シンクロナイズすることの中には、演じる人物が愛する相手を自分も愛するようになる、ということも当然含まれると思う。そういう意味で考えれば、「Milk」を演じた俳優達は、(実生活においても同性愛者である人ももちろんいたであろうが、そうではない人というのは)自分の中の同性愛者的な要素を持ち出すことにより、あれらの役を見事にやったのだと思う。だから、あれほど自然だったのだ。 そして、他でもない、その要素の元となるものは、「誰かを愛する」という、ほとんどの人が持ち合わせているものなのではないか。そこに集中して気持ちを発展させていけばいいのだから、その気になりさえすれば、シンクロナイズすることはわりに容易なことであるのだろうと推測する。言うなれば、演じた俳優たちは、「同性愛者」(及び「異性愛者」)の社会性について、きちんと理解していたということだろう。 昨年、2008年の11月に行われた投票により、カリフォルニア州は再び同性愛者による婚姻を法が認めない州になった。仮に、ミルク氏のチャレンジを始まりの一つと考えるならば、30年以上かけてもまだ、一進一退を続けている状態だということになる。しかし、その始まりがなければ、11月の一退はなかったであろう。そして、一退があったということは、そこに一進があったということである。何か望むものがあり、そこに到達するまでに何年、何十年、或いは何百年の歳月を要したとしても、その一点の始まりがなければ何も起こらないのだ。それだけは確かである。この映画は、たぶん、その一点の始まりのことを描いていたのだろう。(*1) Milk 公式サイト (*1)逆に、そもそも、それは始まりだったのか?という考え方もある。その昔、大昔から、人間は「同性愛者であること」を良からぬことと思っていたのだろうか?という問いかけもある。そんな話はなかったのではないか?どこかの時点で、「同性愛者であることが良からぬことである」という概念が生まれ、それがいつの間にか一般的な考え方になったということだってある。そういう意味では、同性愛者云々のことに限らずとも、人間は一進を続けるというよりは、単に、元に戻ればいいだけだという言い方も出来る。↑ 2009年 01月 24日
私はカナダのバンクーバーに住んでいる。山があり湾がありこじんまりとした繁華街のある非常に美しい街である。しかし、当然のことながら、街がきれいだから全てがきれいというわけではなく、さまざまな問題を抱えている。そのひとつとして、ドラッグ・アディクトの人が多いことが挙げられる。街のそこかしこには日がな一日を道端に座り込んでいる人が見受けられるし、ちょっと裏手に入れば、ドラッグ用の注射針が落ちていたり、明らかに「打っているな」と思われる人とすれ違ったりする。私がこの街に来たての頃だから、かれこれ10年近く前になるが、同僚のカナダ人女性に教えてもらったことがある。こんなような内容だった。 「一般的に真っ当な生活態度と思われていることが、過去の経験や育った環境などから、“そうは出来ない人” (*1)というのがいる。それを、どうして働かないんだ、どうして学校へ行かないんだ、どうしてドラッグをやるのだ、という視点で見ると、何も見えてこない。 単に“そうは出来ない”のだということを受け入れる必要がある。“何かがあって働けないのだろう”“何かがあってドラッグをやっているのだろう”という風に考えなければ、彼らを含めた社会をつくっていくことは出来ないし、何も変わらない。」 カナダの労働基準法による最低賃金というのはわりに高い。州ごとで若干の違いがあるが、バンクーバーでは時給8ドル前後のはずである。日本円にして1000円くらいだろうか?日本からワーキングホリデーでやって来た人たちや、当時の私のように移民でもカナダでの職歴が全くない人たちというのが、どんなに日本で働いた経験があったとしても、最低賃金にうぶ毛が生えたような給料で働かされていることを(良い悪いは別にして)カナダの実態の一例として知っていたから、そして、それでも、まあまあの生活が出来ることも知っていたから、彼らが、なぜ働きに出ないで道端に座り込んでいるのかが不思議だったのだ。そのことを言ったら、同僚が前述のように説明してくれたというわけである。 この同僚からの説明を聞けただけでも、カナダに来た甲斐があったと思っている。そんなことは知っていて当然のことではないかと思われる方も多いと思うが、当時の私にはそのような視点はなかった。その頃だって、特に、道端に座り込んでいる人やドラッグをやっている人を忌み嫌っていたわけでは全くないけれど、「働けばすむことなのに」と単純に考えていたのだ。その「すむこと」が「すまない」場合もあることをよく分かっていなかった。そのことを知ってからというもの、世の中の色具合が変わったように思う。 「Sherry Baby」は、いわば、私の同僚の話を、具体的な誰か(シェリー)に置き換え、カラフルにリアリスティックに描いたものである。シェリーの毎日を眺めることにより、具体的に物理的に精神的にそれを体験することを目的としたものだと思う。ドキュメンタリーではなく脚色されたストーリーだが、しっかりとした物語になっている。 シェリーはわりと金持ちの家に育った女性で、生活に困っていたという経歴ではない。しかし、常習的にドラッグをやっているし、酒も飲む。喜怒哀楽が異常に激しく、情緒が安定していない。すぐに誰とでも寝る。自分の要望を通すための手段として体を用いる。小さな女の子が一人いるが、彼女の生活態度の不安定さにより、手元に置くことができずにいる。そして、これらの根源的な原因となっているのは、たぶん、長い期間に渡る父親との性的な関係であると思われる。映画を通してのシェリー(及び映画製作者と、そして観客)の希望は、2人がいっしょに暮らせるようになることである。シェリーが自分の子供を育てられるような安定した心の人になることである。 この荒筋を読むと、たぶん、大方の人は「なるほど、そういうことか」と思うだろう。荒筋を書いた当人の私もそう思いそうになる。原因(父親との性的関係)があり、現状(情緒不安定、ドラッグ、酒など)があり、未来(子供との生活)がある。しかし、この映画のすごいところは、そう簡単にはいかないところである。ストーリーとしては非常にシンプルで分かり易いものの、観客の体験を「なるほど、そういうことか」というような単純な納得では終わらせてくれない。 もちろん、父親との関係は、シェリーの人生を狂わせた(と言っていいのだろうと思う)大きな原因或いはキッカケの一つであることは確かなのだろうが、それがどのようにシェリーに作用していったのかということは、画面を見ているだけではさっぱり分からない。シェリーの情緒が安定しない、よって生活も安定しないのは、それがどのように作用する(或いは作用した)からなのかは、さっぱり分からない。そして、さっぱり分からないのは、観客だけでなく、映画製作者もそうであり、何よりもシェリー自身がそうなのだ。逆に、誰もが分かるのは、シェリーの情緒が安定していないことだけであり、彼女の気持ちと行動が一致していないことだけであり、彼女が何か(たぶんその不一致)に苛立っていることだけである。その苛立ちだけが際立ってよく分かる。 だから、映画には、解釈としてのストーリー展開がほとんど含まれていない。根源的な理由と判断されそうな父親との関係をも含めて、全ては、シェリーの人生の日々の一コマとして、つまり、彼女の不一致性と苛立ちの展開として描かれている。映画は、その焦点を、シェリーの日々を横から眺めるところに置いている。彼女の行動を一つ一つ丁寧に眺めようとしている。 しかし、何の解釈もないままに画面を眺めていると、だんだんと見えてくるものがある。彼女の服の感じに含まれているもの、住んでいる部屋の感じに含まれているもの。どういう時に怒るのか、どういう時にうれしくなるのか、どういう時に部屋を掃除しているのか。どういう時に自信があって、どういう時に逃げていくのか。彼女が見ることの出来ない人々の心のやさしさ、彼女にしか見えない人々の心のやさしさ、彼女が引き付ける人々の心の清潔さと汚さ。昨日は親切だった人が、今日は冷たい態度を取ること。明日にはまた親切になること。その全ての一貫した矛盾が一人の人間の中に備わっていること。シェリーの不安定さと、それをねじ伏せようとする力。 そして、あることに気が付く。シェリーの言葉(声音)の中には「憎しみ」がないということ。そういうものが含まれていない。彼女は、ことある場面で大声をあげる。気に入らないことがあれば、声高に主張する。些細なこと(に見えること)にも声高に主張する。それらは、鋭利なナイフのように鋭い言葉だけれど、不思議に「耳を塞ぎたくなるような」という感じがしない。たぶん、その理由は、言葉(声音)の中に「憎しみ」がないからだろうと思う。憎くて怒鳴っているのではなく、その苛立ちを誰か(或いは何か)に伝えたくて、でも、それが伝わらないから、声がどんどん大きくなって、結果として怒鳴ることになってしまうのだろう。だから、どんなに鋭くても、聴いている観客の(傷つけられるという意味で)心に突き刺さってはこないし、窒息するような苦しさもないのだろう。 この映画は、その焦点を、シェリーの日々を横から眺めるところに置いている。解釈としてのストーリー展開はほとんど含まれておらず、彼女の不一致性と苛立ちの展開として描かれている。と先ほど書いた。しかし、そこには、希望が含まれていた。それは、映画の中にも、シェリーの日々を横から眺めている人々を設置したことである。 彼らは、シェリーには見ることの出来ないやさしい心を持っていたり、或いは、彼女にしか見えないやさしい心を持っていたりした。昨日は親切だったのに、今日には冷たい態度を取る人だったりした。彼らは、そこにいることにより、意識して、(或いは単に結果的に)辛抱強くシェリーの言葉を聴き、役割分担のような形で、シェリーに必要なこと、必要なものを少しずつ与え、シェリーに不要なこと、不要なものを少しずつ肩代わりした。 その結果(希望の達成)が最後に描かれていた。シェリーは一時は誘拐 (*2)しようとした自分の子供を、弟夫婦の家に連れ帰る。そして、自分で育てられるようになるまで、女の子の面倒を見てくださいと、はっきりとした言葉で伝えたのだ。この弟夫婦への依頼には、ものすごい意味と効力が含まれていると思う。言葉に出してお願いすることにより、自分には子供を育てる能力がないことを認めたことになる。と同時に、子供は「取り上げられた」のではなく、自らの「意思によって預けた」ことにもなる。自分の空洞を隠さず曝け出すことが出来た(公に認識することが出来た)というのはものすごいことであるとともに自分を深く傷つけることでもある。その傷は必要なものではあるが、うまくすばやく治療しなければ、どんどん腐って本末転倒になる可能性も高い。が、ここで「自分の意思で預けた」という意味が加わっていることにより、傷は既に半分治療されたのではあるまいか。 シェリーは、長い苦悩の日々の中から、搾り出すように、この究極の方法を見つけ出したのだろう。周りでじっと眺めてくれている人々がいて、彼女の不安定の部分だけを見るのではなく、それをねじ伏せる力がそこにあることをも見続けることにより、それが彼女に伝わって、暗い中にぽつんと放置されていた、究極の方法を見つけ出すことが出来たのだろう。 しかし、これはシェリーの物語が上手いことハッピーエンドになったわけでは全然全くない。第一章の終わりであり、これから第二章が始まるのだ。それが上手く行くのかどうかも分からない。父親とのことも解決したのかどうかも分からない。ある意味では、(シェリーに対して我々が行ったように)父親の人生を初めから眺めなおさないことには、本当の解決にはならないだろう。それは第二章に含まれるのかもしれない。シェリーは、これからまた、第一章の繰り返しみたいな日々を送ることになるのだろう。そして第三章へ向かうのだろう。一歩、一歩。 この映画や私の同僚が言っているのは、たぶん、この一歩一歩のことなのだろう。即効性がないどころか、遅々として進まず、3歩進んで2歩下がるような(時には3歩以上下がってしまうような)この一歩一歩のことなのだろう。しかし、それくらいゆっくりでなければ、じっくりと眺めることは出来ないし、眺められなければ何も見えないのだ。結果として、その一歩一歩は、木がゆっくりと育ち丈夫な幹を作るように、密で堅いものになるのだろう。 Sherry Baby公式サイト (*1)出来ないという言い方は一方的で偏った見方であり言い方かもしれない。一般的に真っ当な生活態度と思われていることが、必ずしも真っ当かどうかは分からないことは誰しも考えることだから。ただ、道端に座っていたり、ドラッグをやっていたりする理由に、どこかから逸れたい(逃げたい)という気持ちがある場合には、それは「出来ない」という風に言ってよいだろうと思う。↑ (*2)「Sherry Baby」の舞台となっているアメリカでは、実の親による子供の誘拐というのは割りに頻繁に起きる。虐待や性的行いが認められたりなど、親に子供を育てる能力がないと国(或いは州)が判断した場合には、親や子供の意思とは関係なく、同居を許さないという制度が徹底している。そのため、施設に入った子供や里子に出された子供を実親が誘拐によって取り戻すケースが多い。離婚により親権を得られなかったほうの親が離婚相手の家から誘拐するケースもある。↑ 2009年 01月 10日
夫婦の関係において(或いはどういった関係においても)、言ってはならないことというものがあり、また、してはいけない行動というものがあり、そうしたものを相手に向かって吐き出してしまった場合には、その関係は終わるだろうと一般的には思われている。或いは、物理的には終わらないにしても、終わったも同然のものになるだろうと。 これまで、そのように言う人にたくさん出会ってきたし、新聞記事やら雑誌やら本やらにも、そのように書いてある。 実際に、吐き出してみたり、吐き出されてみたりすると、(言ったほうと言われたほうとどちらも)そこから受けた傷というものが恐ろしく無限に深いことを人は知る。 だから、そのように言うのだろう。 映画には2組の夫婦が登場する。 どちらか片方の家で、酒を持ち寄って飲み食いをして騒いでいる様子が写る。 とても楽しそうで、酒が入って多少羽目を外し、踊ったり歌ったりしている。 何の問題もない、きちんとした人達だ。 4人とも理性ある成熟した大人に見える。 しかし、2組のうちの一組の夫と、もう一組の妻とが浮気をしていることがすぐに明かされる。 そして、どちらの夫婦も、先ほど見たような円満さとは違った関係にあるらしいこともすぐに明かされる。 パーティーがお開きになり、それぞれの夫婦が普段の生活に戻った途端、言い争いが始まる。 その様子が本当に自然である。 途端の言い争いであるにもかかわらず、パーティーでの各人のバカ騒ぎぶりがフェイクであったようには見えない。 あれはあれで、それぞれが楽しんでいたのは確かなのだろうということが分かる。 しかし、その間に起きた幾つかの不満ごとが理性を突き破って顔を出すのである。 その不満は、日頃の不満をたずさえて、本来の大きさの数倍ものサイズとなって顔を出す。 その言い争いが、萎んでいく姿もまた自然である。 セックスをして流してしまったり、一人が無視する形で無理矢理に流したり、或いは一人がきちんと謝って流したりする。 結構な言い争いをしていたのに、ふと次の瞬間に見事に冷静になってみたり、それがまた激しい言い争いに戻ったり。 そういうことを延々に繰り返すさまには、感情を爆発させながらも、どこかで無意識に舵を取っているようにも見える。 そういった夫婦の関係性の中で、感情を剥き出しにしていたのは、実は、4人のうちの一人だけである。 夫に浮気をされている立場の妻だ。 彼女は、見た目は細身でキュートな感じもする美しい人であるが、家の片付けなどもあまりよく出来ず、アルコール中毒気味でもある。 かわいい2人の子どもとは仲良くやっているものの、おねしょしたふとんをそのままにしていたりと、ダメなお母さんであるし、夫が浮気しているかもしれないという疑いを持ちつつ、まさか、それが友達カップルの妻だとは思っていない。 夫の浮気相手をすっかり信用して、相談を持ちかけたりもするのだ。 4人のうち、世間一般的な目からして、最も恥ずかしい感じのするこの妻は、酒が入り、感情が高ぶってくると、夫に向かって、激しく罵りの言葉を浴びせかける。 しかし、その言葉は酔って滅茶苦茶ということはなく、酒が入ったから罵り始めたというのでもなく、大声で言いたいことがあるから酒を飲むのだろうと思わせるものがある。 はっきりとした主張のある、しかし、だからこそ、鋭い刃のような言葉を次々に発する。 そのようなことを繰り返しながら、ある日、とうとう、夫に告げられてしまう。 「僕は浮気相手を愛している」と。 一方で、妻が浮気をしているほうのカップルには、このような言い争いがない。 静かな怒りが水面下をゆっくりと流れている感じがするだけである。 結論を言ってしまうと、感情剥き出しのアルコール中毒気味の妻のもとへ浮気夫は戻ることになる。 浮気相手を愛しているとまで言った男が、子どものことや世間体のことではなく、ただ妻のもとへ戻りたいと思って戻ってくるのである。 逆に、浮気妻は、浮気のことを知っても別れる気のない夫のもとを離れていく。 この結末は、驚くべき信じられない展開であるとともに、合点の行くものでもあると思う。 その理由は幾つかある。 まず、アルコール中毒気味の妻は、いくら激しい罵りの言葉を発していても、そこにきちんとしたメッセージを込めていたこと。 自分を最も恥ずかしい状態に落とし込みながらも、メッセージを伝え続けたこと。 夫と別れる別れないの判断が、痛みを受け入れた上で自分の感情に素直に誠実に従ったものであったこと。 そして、奇妙に聞こえるかもしれないが、浮気夫が、浮気相手を愛していたこと。 遊びとか、妻への仕返しとか、そういうことではなく、立場的に良い悪いは別として、人間としては自然な形で人を愛したということ。 妻のもとへ戻る際には、その愛が、妻との間にまだあることをきちんと感じたこと。 それを素直に妻に伝えたこと。 反対に、結局別れることになったもう一組のカップルには、これらのことが一切なかったということ。 相手への思いはあるものの、自分を傷つけずに、曝け出さずに、それが伝わること(相手が言葉なく理解すること)を期待していたこと。 もちろん、これは、単に一つの映画であり、単に一つのケースであり、夫婦間の関係というものは、カップルによってさまざまである。 だから、罵りの言葉を浴びせ合ったことで別れていくカップルもあれば、何も言わなかったことにより再びつながっていくカップルもあるのだろう。 しかし、それでも、冒頭に書いたようなことだけではない夫婦の関係というものがあるのだなと、しみじみと思うことにはなった。 そして、夫婦の関係を続けていくためには、そうした助言によって深い傷を負う(負わせる)ことを避けて通るというよりは、傷を負いつつも、恥ずかしい思いをしつつも、それを乗り越えるような、人間的な強さが必要なのだろうということも、改めて思うことになった。 そういう意味では、夫婦の関係というのは、続けていくことがタフだというだけでなく、非常に危険なものなのかもしれない。 ただ、それを思う存分にやれた後には、きっと、人として生きたという感じがするものなのだろう。 We don't live here anymore 公式サイト 2009年 01月 03日
スコット・フィッツジェラルド(F.Scott Fitzgerald)の同名の短編が原作で、85歳の老人として生まれ、年を逆さに取っていく男性、ベンジャミン・ボタンの一生を追った物語である。そんなことをしても仕様がないと思いつつ、原作があるとなるとついつい比べてしまう悪い癖があり、今回も性懲りもなく原作について考えてみた。 と言いつつも、読んだことがないので、はっきりとしたことは言えないが、(映画の出来不出来のことではなく物語としての)内容からすると、本のほうがきっと面白いだろうと思う。 年を逆さに取っていくということ以外には、ベンジャミンの人生はこれと言って波乱万丈ということでもなく、淡々と積み重ねられる日々を追っていくことによって、何となくじんわりと何かが漂ってくる類いの物語だと感じた。 その手の話には、やはり、映像では耐えられない部分があるだろうと思う。 映画では、ベンジャミンの人生に、本来は不要である色を付けていた(付けざるを得なかった)ように感じた。 そういう細工は出来るだけないほうが良いように思う。 上映時間を2時間47分の長さにまでしたことはすごいと思うが、それでもまだ、話を端折った感のあるエピソードが幾つかあったので、個人的に言えば、興行成績のことは無視し、徹底的に長く、余計な細工はなく、話は端折らない、という風だったら、もっと面白かっただろうと思う。 しかし、逆に考えると、そういう物語で映画を作ろうとした試みはすごいと思う。 脚本を見せられた俳優達は、きっと、ムラムラと俳優魂を刺激されたのではあるまいか。 この話をどのように演じようかと、そこに漂う何かをどう引き出そうかとワクワクしたのではあるまいか。 前述したことと矛盾したことを言うようでもあるが、結果から言えば、それはかなり成功していたと思う。 物語にある悲しさや滑稽さ、時代的な猥雑な感じなどは十二分に出ていたように思った。 特に、主演の一人であるケイト・ブランシェットはものすごく上手く、彼女の美しい顔や背中、つるつるの踵などから、そういったものがドクドクと漂ってきていたと思う。 ところで、物語の内容のほうはどういうことなのかと言えば、冒頭に書いたように、85歳の老人として生まれ、年を逆さに取っていく男性、ベンジャミン・ボタンの一生を追った話である。 戦争で息子を亡くした時計職人が、時間を逆に回すことにより「息子が帰ってくるのでは、、」という願いを込めて左回りに針が動く時計をつくった、、という挿話から物語は始まる。 背景に、駅で息子を見送る時計職人の姿が流れる。 しっかりと抱き合った後、息子は汽車に乗る。 それはやがて戦場のシーンとなり、彼は銃で撃たれることになる。 時計の完成とともに、それが逆まわしに流され、戦場のシーンは駅のシーンへと巻き戻され、めでたく、息子は時計職人の胸の中へと戻ってくるのである。 しかし、ベンジャミンの人生はそうではない。 彼は、85歳で生まれ、0歳で死ぬのだ。 見た目が若返っていくだけの話で、彼の人生が巻き戻されたわけでは決してない。 彼の人生は生から死へと向かっているのだ。 どんどん若返っていくベンジャミンが、一度は結婚をし、子供も持つものの、自分がやがて赤ん坊になるだろうがために奥さんに面倒をかけることを不安に思う日々がある。 不安がる彼に向かって奥さんは言う。 (この奥さんを演じたのが、前出のケイト・ブランシェットである) 「人は皆、最後にはまたオムツをするようになるのよ」 奥さんは、さして深く考えて言ったのではないのかもしれない。 年老いていく祖父母や、或いは両親を眺めながら、我々がしみじみと思うことと同じような気持ちだったのだろう。 人は、年を取るに従い、子供のように我侭に(或いは純粋に)なり、やがては、自分のことが誰なのかよく分からなくなっていく。 そう思えば、ベンジャミンが赤ん坊になっていくこともさして苦ではないと。 そういう意味で言ったセリフだと思う。 しかし、映画を観ていた誰しもが感じることだと思うが、ベンジャミンの人生と、赤ん坊として生まれ、やがて年老いて死んでいく彼の奥さんや我々の人生とには、彼女の言ったこと以上に違いがないことに気づく。 そういう意味では、結果として、ものすごく象徴的なセリフなのではあるまいか。 監督のデヴィッド・フィンチャー(David Fincher)も原作者のフィッツジェラルドもアメリカ人である。 ちょっと調べてみたところでは、彼らのどちらも仏教に精通しているという話は出てこなかったので、単に私の思い過ごしだとは思うが、ベンジャミンの人生は、どこか、リ・インカーネーション(輪廻転生)の考え方を象徴しているように感じた。 人間の元は魂であり、その周りに肉体がくっついているだけなのだということを言い表しているように思った。 赤ん坊が、お腹の中でのことや前世でのことをうっすらと覚えているという話はよく耳にする。 老人が死ぬ間際に、記憶が薄ぼんやりとしてくることは、実は同じ現象なのだろうという気がする。 つまり、魂がこの世を通過する前後には、そのような現象が起きるということだ。 肉体的な物理的な衰えというものは、魂を包む外側の現象に過ぎないが、赤ん坊から老人という、目に見える、この強い現象があるがために、魂の存在が見えにくくなっているのだろう。 ところが、それを逆にすること、つまり、ベンジャミンのような人生を目の当たりにすることにより、そして、その人生と自分の人生との間にはさしたる違いがないことに気が付くことにより、そこに魂があることがよく見えるようになるのだ。 輪廻転生などと言うと、話が大袈裟に聞こえるかもしれないが、そして、これを言い出すと話が更に大袈裟になる可能性もあるが、キリストの復活(顕現)というのは、悟りを開いて冥土へ行くことも出来る釈迦が、この世で苦しむ人々を救うために戻ってきたことと似ているようにも思うので、輪廻というようなことを言い出さなくとも、キリスト教的な意識から、魂を見ようとしたとも言えるだろう。 映画の最後では、「人は皆、最後にはまたオムツをするようになるのよ」というあのセリフを吐いた奥さんが、赤ん坊のベンジャミンを抱きかかえている。 青年期を過ぎ、少年期、幼年期へ入るにつれ、どんどんと記憶があいまいになっていったベンジャミンが、最後の最後に記憶を取り戻す。 もう言葉を発することも出来ずに、生まれたての姿で死んでいくベンジャミンが、しっかりと目を見開き、自分をやさしく抱きかかえる奥さんに「私はあなたを覚えています」と伝えるのだ。 ベンジャミンは真新しい肉体を捨て、その記憶を抱えて、魂となったのだろう。 終わりはまた始まりということなのだろう。 The Curious Case of Benjamin Button 公式サイト 2008年 12月 27日
映画を観ていて、主人公に共感を持つということがあまりない。画面を通して、彼或いは彼女の気持ちや彼らの置かれている状況を共有してしまうことはあるけれど、それは共感するのとは少し違うものだ。 ところが、この映画では、主人公の大学教授ウォルターにものすごく共感した。 映画のどの部分がどのように良かったのかを思い出そうとするのだけれど、これと言って、具体的なことを思い浮かべることが出来ない。 ただただ、共感したその部分だけで映画を観ていたのだろうと思う。 その部分とは、ウォルターと音楽との関係性のことである。 映画は、ウォルターがピアノの個人レッスンを受けている様子から始まる。 才能、、というよりは、もう少し根源的な意味での能力がないようで、そこを棚に上げて、これまでに何度も先生を代えていることが明らかになる。 ウォルターは見るからにどんよりした、色に例えると灰色、溝鼠色のように灰色な感じのする人で、どうしてこの人がピアノを?とつい思ってしまう。 しかし、静かに、注意深く、そして根気良くウォルターを追うカメラを通して画面を見ていると、ものすごい音量の、濃厚な音楽が、彼の内側に存在することを見てとることが出来る。 それは大きく波打ち、彼はその波とともに、頭を前後左右に揺さぶり、両手を振りまわし、形振り構わずに大きなステップを踏んでいるのだ。 ところが、彼の体は微動だにしない。 ほんのわずかに頭が揺れ、指先がテーブルの上で軽いステップを踏むくらいのものだ。 そして、まるでそれで音楽を演奏できるとでも思っているかのように、目だけが大きく見開かれ、そこに漂う音楽を追っている。 ウォルターは装置を持っていないのだ。 内なる音楽を外に出し、空気を震わせる装置を持っていない。 誰かがどこかで書いていたように思う。 ある有名な小説家の奥さんについてだ。 彼女は、精神のバランスを崩した後、自殺した。 その誰かによれば、奥さんは伴侶である小説家に勝るとも劣らないほどの才能を持っていたはずだが、不幸なことに、それを外に出す装置の方は持ち合わせていなかった。 それがために、狂気の世界へ入っていき、やがて自殺したと。 冒頭のピアノレッスンのシーンからも分かる通りに、ウォルターの場合には、音楽的な類稀な才能があったわけではなく、また、仮にあったとしても、その才能を外に出せない、ということではないと思う。 彼が外に出したいのは、波なんだと思う。 空気を震わせ、自分がここにいること、それを誰かに伝えること。 そして、その誰かとつながることとしての波なんだと思う。 彼の内には、その波が存分にあるけれど、外へ出す装置がないのだ。 彼は無意識のうちに、楽器を通して、それを外に出すことが出来ると知っているのではないかと思う。 ウォルターがピアノのレッスンを始めた理由は、亡くなった奥さんがピアニストだったから、というようにも解釈できる。 しかし、それは、一つのキッカケにしか過ぎないのではないか。 或いは、彼には、もともと、音楽の波を通して人の心を感じるようなところがあり、だからこそ、奥さんのことを愛していたということなのかもしれない。 奥さんは彼女の魂をピアノの音に乗せることの出来る人だったのかもしれない。 彼は、それをうらやましく、また尊敬していたのかもしれない。 これが、ウォルターと音楽との関係性である。 私は、音楽において、溝鼠色的にウォルターにそっくりである。 自分で言うのも何ではあるが、私の内にも、ちゃんと音楽の(魂の)波があると思う。 しかし、彼同様に、どうやってそれを外に出せばよいのかが分からないのだ。 私の体も、内側のうねりとは裏腹に、微動だにしないのだ。 だから、彼が、その波を出そうと頑張っているのを見ていると、自分のことのようにドキドキした。 ところで、ウォルターは装置を手に入れることが出来たのか? 内なる波を外に出すことが出来たのか? 空気を震わせることが出来たのか? もちろん、出来た。 これ以上にないというほどに出来た。 それが、最後のシーンに描いてあった。 地下鉄の駅で彼が出したあの波は、遠く離れ、二度と会うことの出来ないだろうあの友人に伝わったはずである。 友人には、それがウォルターからのものであることがはっきりと分かったはずだし、そのことをウォルターは知っていると思う。 彼は、地下鉄の駅で波を出すために、visitor達に出会い、そして別れたということなのだろう。 ウォルターが波を出せるようになったのは、当然、彼とある意味で同じようなところのあるvisitor達との出会いによる。 人間味というのは、その人から出るというよりは、誰かがじっと眺めていてくれることにより出てくるものだと思うが、それと同じように、visitor達に眺めてもらったことにより、ウォルターは波を外に出すことが出来た。 そういう意味では、あのvisitor達は、ウォルターが呼び寄せた人達なのかもしれない。 彼らとウォルターの出会いは、かなり突拍子もなく、唐突的であるし、ウォルターが彼らを受け入れる過程も大胆である。 それなのに、最後のところでは、彼らを追いかけては行かなかった。 再び一人ぼっちの生活に戻って行った。 彼らと出会ってからのウォルターであれば、追いかけて行ったとしても不思議はなかったと思う。 でも、行かなかった。 つまり、あれは、どうにもならない装置不在の体をかかえたウォルターの魂が、自由になるために呼び寄せた人達だったということなのかもしれない。 だから、ずっといっしょにいる必要はなかったのだ。 遠く離れ、物理的につながっていなくとも、それはつながっているのだということを知るために必要な人達だったということなのだろう。 最後の地下鉄のシーンを観ながら、ウォルターは、それを体験しているのだなあと思った。 ウォルターの出す波が、画面を通りこして流れ出してくるほどだった。 たぶん、あのシーンにより、ウォルターと、そして、遠く離れて行ったvisitor達とつながった人がたくさんいただろう。 the Visitor 公式サイト < 前のページ次のページ >
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