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2008年 08月 16日
「英語が話せる」のと「英語で何かを話せる」のとの間には雲泥の差があると思う。
それと同じように、作家というものは、「文章が書ける」人のことを言うのではなく、「文章によって何かを書ける」人のことを言うのだろう。 著者である江國香織はもちろん有名な作家である。 彼女はとても絵が好きなようで、何人かの画家を選び、その画家たちが描いた絵について彼女が感じたことを書いてまとめたのが「日のあたる白い壁」であるのだが、この本は、彼女が絵に詳しいことと、文章が書けるということだけでは成り立たないものを含んでいたと思う。 彼女なりの絵の見方、感じ方、捉え方には、書くに値する「何か」を含んでいると思う。 私自身も絵はわりに好きである。(だからこそ、この本を読んでみたわけだが) しかし、その技法についても、派閥についても、個々の画家の存在についても、全く詳しくない。 余程有名な絵であれば、誰によって描かれたモノなのかを知っていたりはするが、それは例えば、カレンダーとなってトイレの壁にかかっていたからというようなくだらない理由からだったりする。 だから、薀蓄を並べられても、大抵は何を言っているのかよく理解できない。 ところが、「日のあたる白い壁」については、しみじみと読むことができた。 その見方、感じ方、捉え方に賛成できるできないを含め、しみじみと読むことができた。 それはたぶん、著者が画家の人となりについてを書いていたからではないかと思う。 紹介されていた画家のほとんどは1800年代に活躍していた人々で、当然のことながら、著者がその絵を見たときには皆、死んでしまっている。 だから、どこかから文献を探し出してきて、コツコツと読みあさった結果なのだろうけれど、実にカラフルに、画家の人となりを書き表している。 それがそのまま、絵の構図や色の使い方の話に流れていったりするが、話が人物像から逸れていっても、なぜだか画家の人となりを話しているように聞こえてくる。 考えてみれば、画家は絵そのものであり、絵は画家そのものであるのだから、当然と言えば当然なのだろう。 つまり、著者は、誠実な絵の描ける画家に興味を覚える、或いは、画家の人となりを誠実に表した絵に惹かれるということなのかもしれない。 ジュール・パスキンという画家についての章に、「本質と誠実」に関連したことが書いてあった。 芸術というものは、絵画にせよ文学にせよ音楽にせよ、本質的に不健康であり、不健康というのは本質的で誠実なものだというようなことだった。 そして、烈しいエネルギーでもあると。 私は常々、なぜか、心の暗闇に惹きつけられ、暗さのないモノに対してはスカスカした印象を持つことが多い。 なぜ、そのように感じるのかということが、「不健康というのは本質的で誠実なものである」ということを聞いて、明らかになったような気がした。 芸術というものは不健康であり、が故に本質的で誠実である、というよりは、本質的で誠実であるがために不健康なのではないかと思う。 逆に言えば、本質的でも誠実でもないものは芸術ではないということになる。 私は暗闇に惹きつけられているわけではなく、そこにある本質的なものとその誠実さに惹きつけられていると考えると、それはものすごく合点が行く。 本質的であることは、誠実であるには、そこにある汚さ、弱さ、疑問など、全てに対して目を凝らし、突き詰め、考え、感じていなければならない。 それは、結果として、不健康になっていくことを意味するように思う。 全部でないにしても、部分的に不健康になっていくことを意味するように思う。 そのようなわけで、江國香織による画家の人となりを知ることにより、 じっくりと絵を見ること、楽しむことが出来たように思う。 その画家の人となりに好感を持てば、その絵を好きになったし、 その画家の人となりに惹かれれば、その絵に惹かれたし、 その画家の人となりを面白いと思えば、その絵を面白いと感じた。 或いは、そんな絵の見方は邪道であると言う人もあるかもしれない。 でも、そうだろうか? 画家が真に芸術家であるのならば、彼或いは彼女は本質的であり誠実であり、が故に不健康であり、絵はその不健康さを本質的で誠実に表すのだから、それは当然のことのように思う。 本の中で紹介された画家の数だけ、さまざまな不健康さがあり、著者はそれを見抜き、書くに値する「何か」になるまで感じ続けたのだと思う。 そしてそれを著者自身の文章により、なめらかに書き表していたと思う。 彼女は真に作家なのだと思った。
by bp1219
| 2008-08-16 00:10
| Books
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