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2008年 06月 07日
雑誌に掲載した映画評をまとめたものである、、、、、と思う。
というのは、映画評だとはとても思えないほどに粗筋がしっかりと書いてあったからだ。 いや、それはもう粗筋とは言えないほどに、ストーリーの流れが全て書いてある。 ところが、こと細かく説明されているそれはやわらかな色の風景のような役割を果たし、読み終わった後には著者の力強い思いだけが色濃く残る、という不思議な本だった。 映画評を読む場合、個人的には、粗筋なんか無視して書き手の思いだけをガンガン伝えてくるようなものが好きだ。 逆に、粗筋はきちんとまとめられいるのに、それでいて、書き手の思いが不明瞭だったりすると、映画の内容なんてどうだっていいんだ!あなたはどう感じたのかを聞かせてくれ!と、本末転倒なことを思ったりする。 でもそうですよね?映画は自分が観たければ観て、自分の感想は自分の感想として持てばいいのであって、誰かが書いた文章を読むということは、その書き手を感じたいから読むのですよね? 違うのだろうか? そんなようなことを思っていると、あとがきのところに興味深いことが書いてあった。引用すると、 「この「映画評」が批評でないのは無論のこと、もしかしたら感想文ですらないのかもしれない。私にとってこの一連の文章を書く作業は、心地よい眠りのあとで楽しかった夢を反芻するようなものだった。私は、その夢がどのように楽しかったのかを説明する前に、まずその夢がどのようなものだったかを説明したかった。いや、その夢がどのようなものだったかを上手に説明することができれば、それが楽しさを説明することになると思っていたところもある。」 なるほど、そういう意図において、ストーリーの流れが全て書いてあったのかと納得した。 映画自体を観ることを考えると、登場人物の気持ちがセリフによってダラダラと語られていると興ざめし、セリフが徹底的に削られていて背景が静かに流れているようなものからは逆に多くのことが語りかけてきたりする。 この本では、結果的に、それと似た手法になっていたということなのかもしれない。 しかし、よくよく考えてみると、粗筋を無視して書き手の思いだけをガンガンと伝えるのも、その夢(映画)がどのようなものだったかを上手に説明することによって思いを伝えることも、結局は、映画の内容よりは、自らの思いに重点を置いていることには変わりはないようにも思う。 そして、何かを伝えるために何かを排除するという点からすれば、両者は実は同じような手法で書いているとも言えるのではないか。 いずれにせよ、映画を観て、そこに深い心の動きが発生していなければ、どのような手法によって書いたとしても、結局、そこから何も伝わってこないことは明らかだ。 この本を読んで、その書き方に惹かれたのとはまた別に、一本の映画に関し、これほどの思いを持てる著者にとても惹かれた。 30本ほど紹介されていた映画の中には、幾つか観たことのあるものもあり、自分自身が観たときには、ほとんど何も感じなかったような類の映画に対し、著者がかなりの思い入れを発してるのを興味深く読んだ。 もちろん、人にはそれぞれにそれぞれの感じ方を持っているわけだから、不思議でも何でもないことなわけだけれど、映画の内容には心を動かされず、著者が背景のように書くストーリーによっても、やはり同じように心を動かされていないことを確認しつつ、その映画を観た著者の思いに心を動かされるというのは、やはり不思議な感覚があるし、そして、書き手のすばらしさだろうと思う。 自分自身が映画評を書くにあたっても、「粗筋を書かずして書き手の思いを伝える」ということに執着し、毎回成功するわけではないのだけれど、出来る限り、この手法に準じられるように努力している。 今回、「ストーリーをほとんど全て書いてしまうという、その面白い書き方に惹かれた」と言いながらも、今後も粗筋を書かない手法に執着していくことにはなるだろう。 しかし、それはそれとして、「世界は「使われなかった人生」であふれてる」を読み、言うまでもないことではあるものの、まずは書き手としての自分が、どれほどに心のやわらかさ、深さというものを大切にし育てていかれるかということが重要な点であり、逆に、それが出来るならば、著者と同じように(とまではいかなくても)感動的な、或いは、人とつながるような文章が書けるのだ、という確信と希望にもなったと思う。
by bp1219
| 2008-06-07 00:10
| Books
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