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2008年 03月 01日
今、ここで書いているように、ブログやウェブサイトなどに文章を書くにあたり、決まり文句(や言いまわし)を使うのはなるべくやめようと思っている。
確かに、決まり文句を文章のあちこちにちりばめれば、読みやすい文を書くことは出来るし、なんとなく上手な文になったりもするとは思う。 何を言おうとしているのかが人に伝わりやすいという利点もある。 でも、やはり、それでは、自分の文章(自分の意見や気持ち)を書いたことにはならないように思う。 どことなく、どこかの雑誌や本に書いてあったことを読んでいるような印象が残る。 もちろん、自分の文章を持つに至るには、何度も何度も書くことが必要だし、うまく表現出来ないことにイライラもするだろう。 誰にも読んでもらえないという状況が長く続く可能性は大きいし、結局、そんなものを持つことは出来なかった、、ということにもなりかねない。 それでも、それを目標にコツコツと書き続けることは、それだけで素晴らしいし、幸運にも、自分の表現したい何かを、表現したい形で文章に入れ込めらることが出来たら、それは、「はい、私はあなたの文章を読んで感じるところがありました」ということを目の前で言ってもらわずとも、そうだということが、誰かとどこかでつながっているということが分かるのだろうと思う。 歌を歌って人を感動させたり、絵を描いて人を感動させたり、器を焼いて人を感動させることの出来る人がいると思うが、それに近いようなことかと思う。 というようなことを考えていたら、それとは全く違うことを言っている人に出会った。 「The Kite Runner」(Khaled Hosseini著)(*1)という小説の中に、「それでも決まり文句の中には、そうとしか表現しようのない事実がしっかりと表現されているではないか」というような内容のことが書いてあったのだ。 そう感じているのは小説の中の主人公の男性で、劇中、彼は作家ということになっている。 「大学で文学を習っていた際に、教授が決まり文句は使うなということを繰り返し言っていたけれど、教授がその話を始める度に、決まり文句の中には表現したい内容がしっかりと全て入っていると感じたものだ」とある。 このエピソードが出た少し後で、主人公は父親を失い、そして、しばらくして、父親が隠していたものすごい事実を知る、というふうに物語は展開する。 その時のうちのめされた複雑な心境を表すのに、「教授はああ言っていたけれど、やはり、そうとしか言いようがない」と言って、決まり文句を出してくるのだ。 なるほど、そういう見方もあるのかと思った。 なるほどなとは一瞬思ったのだけれど、ふと、実は、決まり文句が決まり文句として使われていないことに気が付いた。 決まり文句にまつわる半ば愚痴のような話をダラダラと聞かされることによって、主人公のうちのめされた複雑な心境の、薄暗い、グチグチと湿った感じがこちらまで漂ってきたように感じたからだ。 そのジットリした感じの雰囲気の中に、決まり文句を単体として書き加えることにより、表現の補足(確認)をしただけのことだったのだろう。 結局、自分の持論に戻ってしまったが、こうして書いていて気が付いたことは、決まり文句を文章中にちりばめることを避けるというよりは、そうすることによって、そこにあった雰囲気や感じを消してしまうことを避けている、ということなのかもしれない。 表現したいことは、そういうものの中にこそある、、、というか。 前述の小説の作者の経歴を読んで、この本は、作者本人の経験をもとにしたフィクションなのではないかと思った。 だとしたら、決まり文句云々の話は、もしかすると作者が感じていることなのかもしれない。 それを、このような形で小説の中で表現したというのは、すごいことだと思う。 もちろん、全て、私が個人的に感じたことであり、推測でしかないわけだけれど、読者の気持ちをそこまで持っていったというのは、やはり、「表現」だろうと思う。 私がここで、ダラダラと書いている「決まり文句」にまつわる話が、いつの日か、どこかで姿を変えて表現される日がくるように、コツコツと文章を書いていこうと思う。 (*1)「君のためなら千回でも」というタイトルで日本語版が出ている。 同名の映画も公開された。↑
by bp1219
| 2008-03-01 00:00
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