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2010年 12月 11日
女親が2人、子供2人の一家の話。
アメリカのサン・フランシスコ郊外を舞台にした話であるが、老舗のサン・フランシスコでなくとも、このような組み合わせのファミリーというのはわりと多くなってきていると思う。 もちろん、まだまだ、彼らに対する偏見のようなものはあるのだろう。 いつだったか、アメリカか或いはカナダのニュース番組で、ゲイ・カップル一家がインタビューを受けているのを見たことがある。 一家の子供が「うちは人の寄り集まりではなくて家族です(We are a family not a bunch of people)」と言っていたのが印象的だった。 しかしながら、この映画は、ゲイ・カップルに対する偏見を背景にしたものではない。 ゲイ・カップル一家が一つの家族であることを当たり前の前提とした上で、家庭内の問題についてを題材にしている。 その問題は、決して、小さな(或いは軽い)問題ではないし、巷にあふれた問題というわけでもないが、位置付けが家庭内のことになっているのがポイントだと思うし、人との関係のあり方がくっきり見える問題だとも思う。 スパム・ドナーと、どのように関わっていくのか、ということである。 とても画期的なアイデアだと感心したのだが、この一家の子供2人は異母姉弟である。 2人の親のうち、あまりうるさいことを言わないおおらかな感じのほうが女の子を産み、保守的で大黒柱風のほうが弟を産んだ。 そして、両者とも同じドナーから精子の提供を受けている。 よって、娘と息子は異母姉弟ということになる。 個人的には、血の関係を重視するのはあまり好きではないので、矛盾したことを言うことになるが、それでも、これは素晴らしいアイデアのように思う。 それでなくても、難しくセンサティブな問題が持ち上がりやすい家族形成において、弱くなりがちな心を強く保つための、ちょっとしたテクニックのように思った。 心をわずらわす要因は、できるかぎり排除しておこうという気合が感じられる。 センチメンタルな思いよりも、何かもっと、大胆で成熟した気合だ。 しかし、心はわずらわせれることになる。 私は知らなかったのだけれど、スパム・ドナー(逆に言えば、提供を受けた女性と)連絡を取り、直に会うことは可能なようだ。 もちろん、人によっては、コンタクトを避ける人もいるから、自分のファイルをオープンにするかどうかの選択は本人に決める権利がある。 映画では、姉弟の側にドナーに会いたいという意思があり、ドナーのファイルはオープンだった。 姉は18歳に達していたため、親の許可なしに彼らは連絡を取り合い、ストーリーが進んでいく。 拍子抜けするくらいに全ては上手くいく。 親2人はあっさりとドナー登場の事実を知るが、そのハードルも簡単にクリアーされる。 親にはないものをドナーが持っていることは明らかで、親戚の若いおじさんか、年上のいとこか何かのように、つまり、親とは違う距離間を持った大人という立場で、姉のほうとも弟のほうとも親密になっていく。 傍から見ていても楽しそうだ。 もとからそれなりに上手くいっていた4人家族の中にさわやかな風が流れ、誰もが大きく深くしっかりと息をするようになっているのが感じられる。 弟がドナーに尋ねるシーンがある。 精子を提供すると、幾らくらいになるのかと。 両親のなりそめを知りたがる子供というのがいるが、確かに、そこには自分が生まれ出てきた理由というかきっかけというものがあるのかもしれない。 同じ意味合いの回答を得たい場合、弟としては、上記の質問をすることになるのだろう。 その値段の高さ(或いは低さ)によって、何かしら判断できる材料が出るのかもしれない。 少し困った顔はしたものの、ドナーは正直に答える。 60ドル。 ドナーの説明によれば、インフレの上昇率を考えると、当時としては80ドルくらいの価値があったし、80ドルは決して少ないお金ではなかったということだ。 つまり、弟が(或いは姉、或いは他の多くの同じ立場の子供が)想像した通りに、お金のために精子を提供したわけだ。 しかし、すぐにドナーが言う。 まっすぐに、弟の目を見て言う。 「I’m glad I did (提供して、良かったと思うよ)」 個人的にとても好きなシーンで、映画にメッセージのようなものがあるとすれば、たぶん、それはこれなのではないかと思う。 少なくとも、私が受け取ったものはここにあった。 これほどストレートに、素直に、何の混じり気もない気持ちで、自分の存在を認められ、受け入れらた経験を持つ人があるだろうか? ゲイ・カップルとか、精子提供とか、代理母とか、いわゆる「自然ではない」と考えられてきた行為によってのみ感じられ、感じさせられることというのがあることを知った。 しかし、心はわずらわされることになる。 それは子供のほうではなく親のほうだった。 姉を産んだおおらかな女性はどちらかというと母親役で、弟を産んだ大黒柱の女性は父親役なのが見て取れる。 父親のほうはドナーに無闇に挑戦したり、批判したりするようになる(としか言いいようのないように見える)。 母親のほうは彼と浮気をする。 書いていて、ふと思ったが、この映画の題名はそういう意味なのだろうか? 子供とドナーとの関係が互いの性格や人柄によって成立しているのに対し、親2人のほうは、自らの父親としての(母親としての)立場から、人としての関係ではなく、位置関係を作ろうとしているみたいだ。 映画は結局、ドナーを家族の枠の外へ追い出すことにより家族がいつもの調子を取り戻し、再び仲の良い4人になる。 この結末には非常に不満があった。 客観的に見れば、これもまた、それでなくても、難しくセンサティブな問題が持ち上がりやすい家族形成において、弱くなりがちな心を強く保つための、ちょっとしたテクニックなのかもしれない。 物理的な血のつながりがあるからと、安易に家族になれるわけではないという意味なのかもしれない。 しかし、この家族は、ドナーから受け取りたいものだけを受け取り、関係がややこしくなったところで、パッと捨てただけに見える。 父親としての自分の立場が心配な親にしろ、浮気をしてしまった親にしろ、そもそもドナーに会ってみたいと最初に言い出した弟にしろ、ドナーと最も良い関係を築き上げていた姉にしろ、一人一人を見ていると、何ら、ネガティブな気持ちは起こらない。 一人一人を見ている限りでは、自分もドナーの肩を持ったりはしないのかもなと思ったりもする。 浮気をした母親のほうを許し、たまった感情はドナーのほうに投げるかもしれない。 父親の嫉妬からくる行為は水に流し、寂しい思いをさせたことを悔やむかもしれない。 でも、出来れば、そうしたくないと思う。 4対1はいくら何でもひどいと思う。 或いは、結果は、ドナーを切り捨てることしかないのかもしれないが、どんなに映画が長くなろうとも、その残酷な行為を行う心の過程をきちんと描いて欲しかったと思う。 それがなかったために、さわやかに、家族の深い絆を現しているような絵づらのラスト・シーンは薄っぺらで陳腐に感じられた。 それはそれにしても、母親役のジュリアン・ムーア(Julianne Moore)と父親役のアネット・ベニング(Annette Bening)はとてもつもなく上手かった。 The Kids Are All Right 公式サイト
by bp1219
| 2010-12-11 00:39
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