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2009年 03月 17日
前回の「デッサン その4 モデル」では、私がモデルの2人に感じたことをつらつらと書いたが、デッサンをする最初の段階では、そういうものは必要のない感覚のようだ。
モデルを前にし、インストラクターは何の説明をするでもなく、「好きなように描いてごらん」と言った。 そして、描いている生徒の周りをぐるぐると歩き周り観察した結果、「皆、同じ描きかたをしているね」と見解を述べた。 私を含め、全ての生徒がやった方法とは、モデルの身体の形を描こうとすることだった。 楕円の頭部があって、首があり、その横に肩が広がり、そこから2本の腕が出ている。 腕の間には厚い胴体があり、その下には尻があって、そこから出ているのは当然足だ。 そのように、のっけから2本の線で空間(形)を描き、また、各線はすっと伸ばした1本というような、線をコミットさせる方法は取らないほうがいいという。 それは、絵の薀蓄から言うと、ギリシャ人が行っていた方法で、ひとことで言うと「肌から描く」方法だということだが、そうではなく、「骨格から描く」のが今日における基本なのだそうだ。 なぜなら、(ここから彼の基礎知識/哲学が始まる)、骨格はどの人間でも同じだからだ。 よくよく観察していれば誰しもが気がつくことだが、人間は普段、すっくと真っ直ぐに立っていることはあまりない。 だいたい、身体の右か左かどちらかに重心を取り、結果として、少し斜めの状態を保っている。 その際、肩及び腰骨は常にペアで上下される。 つまり、重心となった側の肩と腰骨はともに下を向き、重心とは反対側の肩と腰骨がともに上を向くのだ。 これを、重心の側の肩を上げるとか、重心とは反対側の腰骨を下げるとか、そういう姿勢は(実際にやってみると分かるが)非常に不自然である。 さらに、細かいことを上げれば、髪の生え際からあごまでの長さと、足の指からかかとまでの長さは、どんな人でもだいたい同じであるし、小鼻の位置を真横に沿っていったところに耳があるのも人間社会において万国共通のことである。もちろん、人によって差異はあるから、一般的に言ってということだが、改めて確認してみると、確かに、骨格にはある種の決まりがあるように思う。 その骨組みの原理を理解し、まずは骨格の部分を正確に描けるようにすれば、人間らしい姿を描くことができるわけだ。 精密に描かれているわけではなく、どこか歪んだように見える人物画でも、なぜか、現実感漂う(そこにその人が横たわっている感じが伝わってくる)絵というのがあるが、そういうのは、もしかすると、基本的な骨や筋肉の動きというのを、しっかりと理解した上で描いているから、ということなのかもしれない。 つまり、イメージとしての人間の形ではなく、現実的にじっくりと観察するという過程を経て得た形だということだろう。 歪んで見えるのは、我々が人間の身体に持つイメージと現実の間に差があるということで、実際に注意深く本物を見てみると、実は歪んでいるということなのかもしれない。 そういう意味では、整体や指圧の先生などというのは、うまいこと人物像を描けるのかもしれない。 人物画のデッサンの本を見ると、よく病院の壁に貼ってある人体模型図(骸骨版及び筋肉版)みたいな絵が出てきて、骨や筋肉の位置関係やつながりについて詳細に説明があるから、究極な案として、人物画、特に、ヌードを描こうと思ったら、デッサン学校になんか行かないで整体を習いに行くというのも面白いかもしれない。 骨格の話を聞いていて思い浮かべたのは、大工さんのことだ。 家を建てるのも、まずは骨組みがあって、そこから壁を張ったり屋根を葺いたりするわけで、どんな家でも(間取りの違いはあれど)基本的な柱の組み方は同じで、その家の個性が出るのは、壁や屋根からなのだろう。 家の壁やら屋根に当たるのが、人間で言えば肌だ。 骨格が整ったところで、2本の線で空間、つまり、骨の周りにある肌を描き込んでいくというわけだ。 この部分については今回のクラスでは講義がなかったのだが、推測するに、ここで登場するのが、最初のほうで習った「線」なのではあるまいか。 そして、自分が線、つまり、絵の全体そして部分に成りきるために、じーっとモデルを再び眺めまわすことが必要となるのだろう。 このように、5回に渡って、クラスで感じたことを書いてきたわけだが、いろいろと感じたわりには、それが絵には反映されていなかったようで、私の描いたものに対するインストラクターの反応はすこぶる鈍いものであった。 それは、才能があるとかないとかいう以前に、課題として自宅で描いてきたものにしろ、クラスで実際にその場で描いたものにしろ、描きながら、頭のどこかで、気持ちを(線に込めたり、観察に込めたりするのではなく)文章化することに懸命になっていたのがバレていたのではないかと思う。 それは、私が文章なら書けるとか、そういう意味でさえもなく、それの前の段階、土台の土台みたいなこととして、バレていたのではないかと思う。 ということで、私は結局、インストラクターの哲学を通して感じたことを、このように文章の形で表現することにより消化した。 「デッサン その2 哲学」ででも書いたが、芸術の哲学の基本となるところは、絵であれ、文章であれ、何であれ(例えば整体とか)、同じことであるのが、今回のクラスを取ったことによりよく分かった。 そういう意味では、そのことを反映する装置として、始めたばかりの絵ではなく、未熟ながらもこれまでコツコツと続けてきた文章だというのは、繰り返しになるが、納得のいくことでもあり、うれしいことでもあった。 とは言っても、出来る限り、描くようにしたいとは思っている。 骨格の次の「肌」についても気になるので、同じインストラクターの別のクラスを取ってみようと思っている。(今回取ったのの続きのクラスがあるのだ。) たぶん、秋くらいになってしまうと思うが。 絵を描くのは嫌いではないみたいなので、しつこくやっているうちに、ふと、入り込めるような気もしている。 「この人、気が入っていないわりにしつこいな」という感想をインストラクターが持ったらきっと楽しいだろうなという欲望もある。
by bp1219
| 2009-03-17 23:10
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